理解という誤解
- DATE : 2013.04.28
- Cat : Sol
私、天使見えます♡
私、わかってます!
みたいなアピールする人、特に女性に多いですけど、あれってなんなのでしょうか?
例えば、全ては繋がってる、全ての責任は自分にある、お金はエネルギー!等というような言い回しを多用できるという感覚のことを指してるんですが、であるなら、なぜ繋がってるのにも関わらずの特に異性への不理解や、自分にあるはずの責任であるにも関わらずの言い訳しまくりのガン転嫁が起こるのでしょうか?
そもそも、わかってるアピールをしなけりゃならん時点で、わかってないアピールをしてしまってるってことには気付く必要があるようです。
天使が見えようが見えまいがそんなことどっちでもよろしいけど、仮に観えてるんであるなら、どうぞ、それを世の中のために活かして下さい。少なからず天使であるなら天からの使いである以上、そこにエゴなんてないはずで、正当化のために使われるだけなんてたまったもんじゃないはずですね?それなら天使ではなく、私使とでも呼ぶべきだと思います。
女性は往々にして直感力が優れてるものだと思います。直感とは相反する2つのものを同時に掴める能力と置き換えてもいいんだと思いますが、だからそこに矛盾をきたし、だから言葉にならない。ただその矛盾はこの物理次元においての矛盾であって、1つレイヤーを上げれば矛盾でもなんでもなく、ちゃんと同時成立するんですが、レイヤーの概念への認識が薄いから、矛盾しないのに矛盾して、矛盾なんだけど矛盾じゃなくて、あー誰か答え教えて~とスピ系に走り、その中で見つけたワードに飛びつき、さも自分の言葉のように使う、ということなんだろうと思うわけです。
レイヤーについて言えば、webは4次元で、この現実世界は3次元なわけです。例えばウィキペデアを書籍(3次元)化できないということは理解できるでしょうか?仮にしようとすれば、横開きと縦開きが同時にできなければならない。もう少し言えば、料理のレシピ本を作るとします。その際に考えられる切り口として、以下、
・料理名(カレー、唐揚げ、ハンバーグ等)
・料理法(煮物、焼物、蒸し物等)
・素材別(大根、人参、じゃがいも等)
などが考えられます。
これをwebでやるとすると、横軸に料理法を置いて、縦軸に素材を置いて、その交わる1点で料理名が出てくる、ということができるわけです。
大根を使った煮物料理、とか、蒸し料理でキャベツを使ったもの等。
逆に言えば、そういった検索方法は、物理次元(紙物の平面でしかない書籍)では不可能なわけです。
このレイヤーの違いを認識して、今どっちの次元での話なのかを自己把握した上で、言語化できてこその理解なわけです。
ごちゃっと矛盾でない矛盾、みたいなことをわかる者同士でしか通じない感覚で向き合うから、それ以外の別の感覚とは繋がりようもなく、そこで相手に問題があると転嫁が生じるのだと思うのです。
感覚的なものを他者の言葉を知ったことでわかった気になるのは構いませんが、それはわかっているのではなく、単に知ってるに過ぎません。
理解とは、読んで字のごとく、理(ことわり)を解する、わけです。
理とは、法則性ということです。
それを解することを、理解と呼ぶわけです。
別の例えで言えば、モナ・リザは凄い絵なわけです。
ではなぜ凄いのでしょうか?凄いとされてるから凄いと言うんであれば、なんらそこに理解はありません。なぜ凄いとされているのか、を解することが必要なわけです。少なからず、ダ・ヴィンチは美の法則性の上に描いているわけです。

鼻の中心から、フィボナッチ数列による螺旋が見て取れます。その数列は、自然界のあらゆる場面に見出せます。わかりやすいのは巻貝のそれです。
無意識に人は、そこに美を見出します。それを意識して表現に取り入れることができたからこそ、凄いと直感できるわけです。逆にその直感はどこからきたのか、を自らに問うこと、無意識を意識化することが、自らの責任なわけです。
それができずして、わかってるというというアピールは、単に直感を肯定して欲しいという甘えでしかありません。もちろん、甘えをわかってあげることはできますが、直感したものを肉体が違う者同士がわかってあげることはできないのです。
男性には生理も出産も経験できない以上、そこに感覚的理解が生じるはずはないのです。だからこそ、想像力を駆使して、心で寄り添うことはできたとしても、それはあくまで想像の範疇を出ない、というエクスキューズは必要なわけです。
理解を求めるのであるなら、自身が理に対して解する努力が必要なわけで、また、本質的に繋がりたければ、その努力は自分を殺さないとできない以上、自分を殺すことで他者と自らを並列に扱うことになるわけで、故に繋がれる、という結果に至るのです。
理とはなにか。
それは、そこここに転がってますので、自身の体を使って掴んで頂くほかありません。
要は、諸行無常ということです。
この言葉に対してもかなりの誤解が見受けられます。
当然、理である以上、そして、これを解することは、仏教での悟りの第一段階とされるそうなので、そう簡単なものではないはずです。ただ解すれば、こんなに簡単な話もないのですが、そこに向き合うことなく、わかってよ、なんて、それこそ、先ずは私を殺せ、という話なわけです。それ以前に、殺すべき私とはなんぞや?を自らに問う必要があり、それをしていないから、自らをわからず、故に信じるべき自分の不在=自信の欠如ということなわけです。
自信とは、自らを信じるわけですから、信じるべき自分を知ってない時点で信じようもないわけです。私と自分。あれ?2人いますね、ってことに気付いてない人はいないと思いますが、そうです。レイヤーの違う私と自分、2人が同時にいるんですね。これは心理学の世界では常識です。私=頭、自分=心と置き換えてもいいでしょうが、だからこそ、心に向き合うことが必要だと思うのです。
SOL