経済という名の不経済
- DATE : 2013.04.22
- Cat : Sol
江戸時代に水野南北という観相家がいました。南北は幼少期の環境の悪さから、喧嘩や悪事によって入牢することになりました。その時、入牢している人たちの人相と一般の人たちの人相の違いを感じ、人相というものに興味を持ちました。それで自分も出獄後、当時有名な観相家に見てもらうと、「剣難の相で余命一年」、助かるためには出家することを勧められ、禅寺の門を叩くと、入門の条件に一年間「麦と大豆」だけで生活することと、という条件があったそうで、その食の節制をしたことで、一年後には凶相は消え運気も上がるようになったので、本格的に観相の勉強を始めることにしたそうです。床屋で働き人相を、風呂屋で働き身体つきと運の関係を、焼場で働き骨相を、とありとあらゆることを調べたのですが、その結果、貧相なのに運が良い人、福相なのに運が悪い人、運が良いのに贅沢な食事になると運が悪くなる人、ということを見出します。
結論として、唯一「食の節制」をしている人が運が良い、ということを発見したのです。
とは、大阪新町・しずく餅石田さんから教えて頂いたお話です。
貧困や飢餓で人が死ぬ、ということがほぼないであろう現代日本。
これだけ潤沢に食べ物が溢れ、そして平気で捨てることができてしまう現在の日本。
人間が人間を創ることはできないわけで、ということは人間も自然の産物であるということです。それを維持していくためには、同じく自然の産物である必要があるのではないでしょうか。要は命の宿っている食物を口にすることで、命を繋ぐことができる。
今、純粋に、命を有する食品がどれだけあるのでしょう。もし、命の宿らない食品を排除したとしたら、飢餓状態になるんじゃなかろうか、と思ったりしますが、だとしたら、鎌倉・室町時代なんかとなんら変わっていないってことかもしれません。
自然の産物であっても、例えば遺伝子組み替え作物などは、それが人の手によって歪められてるわけで、次世代の種を宿しても芽が出ないということは、それを食する人間の子種にも異常をきたすであろうことは容易に想像がつきます。
命の宿る食材とは、自然の産物であると同時に、生産者や加工者の命が吹き込まれているかどうか、ということだと思います。
面倒臭せぇとか、お金のために、とか、そんな意識の中から生み出されたものに、命が宿るとは到底思えません。
料理は愛情、なわけです。
命を繋ぐものに対して、安かろう悪かろうでは、病を招いても仕方がないと思います。
そもそも、安く手に入れたいという思いは、自らの利益しか考えていない、ということです。ちゃんと命や愛情を吹き込むことのできる生産者や加工者を応援する行為が、本来の物を買うということです。そこには自らと売り手と、そして環境に対しての利益が見越されている。三方良し、ということ。
いずれにせよ、安全かどうかも定かでない安いものを買った結果、病に罹るってことは、いわゆる安物買いの銭失いってことです。経済性の追求の結果の不経済。合理化の末の非合理。
食べ物が体を作る。当たり前の話です。
上記の話を踏まえれば、心にも作用し、運命すら司る。
選択は自らの手によってできることです。
生きるとは、選択の連続。
それを自らが行うことを放棄した時点で、肉体は生きてたとしても、精神は死んでいます。
そろそろ、命をお金に換算する、という発想は、捨てる必要があるんだろうと思います。
SOL