本物・偽物
- DATE : 2009.03.11
- Cat : chezの独り言
散歩してたら、川の真ん中に白鷺。
全っ然わからんけど。
確定申告もメドがついたので、落ち着いたところで『Mitate』の白洲・茂木対談読んでみた。
ハッとする部分と、共感する部分と、笑える部分とで、読み応えありです。詳しい感想は、敢えて書きません。
でも1つだけ。
気付くというのは、「付く」わけやから、自分になにか神様みたいなんが「付く」ってことじゃないか、みたいなくだりに、それこそ気付かされたかな。「付く」というより、「憑く」って感じ。
「疲れる」も「憑かれる」と聞いたことがあるけど、実際肉体的な疲れとは別に、変な気をもらってしまって疲れた=憑かれた?みたいな時もあるしね。
夕方、また散歩。
calmeのウンチが白い。
偽ウンチ。
ティッシュの食い過ぎやっちゅうねん。
道すがら、パンジーが咲いてたのやけど、画像左の道路との境に、なぜが造花のガーベラが1列に。よーわからん。ペラッペラやねんけどな。
でも偽物も別に嫌いではないです。ただし、偽物だとは知ってたい、かな。偽物を本物だと錯覚して生きてくことは、ちょっと無理。
こないだ知人と話してたら、器は100円ショップで買うという。なんで?と聞いたら、なんとなく、と。器は100円ショップで!と信念持ってたらそれでええけど、それではちょっとな、って思ったな。
別に高いからいいとか、安いからダメとかってことではないんやけど、やっぱいいものはそれなりの値段はするし、ま、値段の問題ってより、自分が気に入ったものであったら、大事にするでしょ。その扱い方は丁寧になるやろうし、その所作がきっと美しいのやと思うし。
それとは別に、こんなもんが100円で買えちゃうの?ってもんが売ってたりするやん?もちろん安く買えるのはありがたいけど、どう考えても採算合ってないんじゃないの?って思うものってある。それはきっとそんなに遠くない国の人達の、タダ同然で尚且つ過酷な労働があってこそ成り立ってるんちゃうのかな。自分だってできるだけいっぱい報酬は欲しいんやから、誰だってそうやろうと思う。自分の欲望が、誰かの犠牲の上にあることに少し意識してみる必要があるのかもしれない。
壊れても惜しいとは思わないものを使うと、扱いが雑になるのは仕方ない。それが悪いとは思わんけど、でも気に入ったものなら大事に扱うわけやねんから、どうせなら、1つ1つそんなものを見つけていったらいいんじゃないのかなって思う。
そもそも、古伊万里でもなんでもええけど、そんな割れて当たり前のものが200年なんて時を経て今にあるなんて、きっと使ってきた人達も大事に扱ってきたからこそ。気に入ったものを見つけて大事に使うってことは、大体、自分を大事にしてるってことやもん。そんな人は、人の大事なものも大切にできると思う。
テキトーなもの選びはきっと、自分を蔑ろにすること。そして、大事にしようとも意識せずに、壊れたらまた買うの繰り返し。その時、他者を大事にできてるとしたら、それは驚き以外の何ものでもない。そんなことはあり得ないと思う。
今の世情の殺伐とした感じの原因の1つに、そんなこともあるんじゃないか、と思うのです。