At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

BLOG ブログ

染織史家・吉岡幸雄氏ドキュメンタリー『』が、5/17まで京都シネマで11:00-やってます。

*5/18からは神戸・元町映画館にて

冒頭で、紫に染めるのが1番難しい、だからこそ好きだと仰ってました。

紫という色は可視光線で1番周波数の高い色。

それは周波が微細であり繊細であり、同時に傷付き易さでもあり。

また、精神性や意識の高さであり、同時に視界の広さでもあり。

紫を生きろ、というメッセージなのだと思いました。

物作りに携わってる人、携わりたいと思ってる人、日本に生まれた人、地球に生きてる人に是非観て頂きたいと思います。

SOL

2013/05/07

自分のすることを愛せ

表題は、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の中の有名なセリフ。その前後は以下。

「村を出ろ。ここにいると自分が世界の中心だと感じる。何もかも不変だと感じる。今のお前は私より盲目だ。人生はお前が観た映画とは違う。人生はもっと困難なものだ。帰って来るな。私達を忘れろ。手紙も書くな。郷愁に惑わされるな。我慢出来ずに帰って来ても、私の家には迎えてやらない。分かったか。自分のすることを愛せ。子供の時、映写室を愛したように」。

この映画を観たことがない人にとっては唐突過ぎてわけがわからないかもしれませんが、これだけを聞くと非情と捉えられるのでしょうか?

自分を愛しなさいという言葉をスピリチュアル系の本等でよく目にしますが、では愛するとはどういう意味なんでしょうか?また、どうすることで自分を愛せるのでしょうか?

よくよく引用しますが、マザー・テレサが、「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」という言葉を残していますが、ここで読み取れるのは、無関心の反対が愛、即ち関心を持つということ、また、憎しみも愛の一部であるということです。憎しみを抱く時点で関心があるからこそで、無関心な対象にはなんら感情は抱かないはずです。更に言えば、愛の反対を憎しみだと捉えている人が多いんであろうということで、その反対を愛だと捉えてるということも読み取れます。

そこで導き出されることとして、自分を愛するということは、自身に対して関心を持つということになるわけですが、そうではなく、自分を憎しみの反対、辞書的に憎しみの対義語は慈しみとされますが、そうでもなく、きっと可愛がるとか甘やかすという意味で捉えられてる方が多いんではないのでしょうか。その結果、いわゆる自己憐憫に陥るのだと思うのです。

少なからず、映画の中のセリフで、村を出ろと言われているということは、出ることに躊躇があるからということで、子供の時の気持ちを忘れ、自分のしたいことよりもぬるま湯の環境に自分を甘やかしていることが見て取れるわけです。

再度言いますが、自分を愛するとは、自分自身に関心を持つということです。

さて、ここでは自分を愛せと言ってるわけではなく、自分のすることを愛せと言っているわけです。置き換えれば、自分のやっていることに対して関心を持てと言ってることになります。

今やっている仕事に関心がありますか?

とりあえず生きるためにお金が必要だから関心がないことであってもやっている、のでしょうか?関心がないことである以上、愛ではないということで、お金のためであるということは、愛よりもお金を重視しているということになりそうです。

では、生きるために必要で、愛よりも勝るお金について関心はあるのでしょうか?

なぜ生きるためにはお金が必要なんでしょうか?

そもそもお金とはなんなのでしょう?

そうなれば、お金に対しても無関心である、ということになります。

逆に言えば、お金に関心がないから、お金にもそっぽを向かれる、がために、いつまで経ってもお金からは自由になれず、お金のために働かなければならない、という結果に至ってる、ということになりそうです。

自分のすることを愛するということは、今取り組んでる仕事が好きでなかったとしても関心を持つ努力をする必要がある、と言っているということです。それならば、元々関心があることを仕事にすれば話が早いということになります。しかしながら、大人は好きなことを仕事にしてはいけない、と言います。ここで混乱が起きるわけですが、好きと関心を持つこと(=愛)は、根本的に違います。好きとは、恋と置き換えても差し支えないと思いますが、いわゆる執着であり、所有欲であり、嫉妬の因となるものです。恋愛というのは、恋を通過することで愛に至る、逆を言えば、愛に至るためには恋を経験する必要があるということです。故に恋愛なんであって、決して愛恋なのではありません。

戻りますが、恋の感情で仕事をすれば、執着がある以上、必ず破綻をきたします。だからこそ、好きなことを仕事にしてはいけないと言われるのだと思います。間違っても関心のあることを仕事にしてはいけない、とは言ってないはずです。

とはいえ、お金のために関心がないことを仕事にしてしまったんであるなら、先ずは今やっていることに対して関心を持つことです。どうしても関心が持てないから関心があることを仕事にしたいので職場や職種を変える、それはそれでいいでしょう。しかし、自分のすることを愛せと言われてるんであれば、生活するためにお金が必要な以上、そこで否が応にも経済活動に加担しているわけですから、自分のしているそれに対して関心を持つ必要がある、とういうことになります。

例えば、いいなと思った服があったとします。試着して似合ってて、いくつかの着回しまで思いついた、さていくら?と思ったら想像以上に高かった
、そんな場面、生きてれば何度も味わってるはずだと思いますが、そこで断念するということは、自分の思いに応えていない以上、欠乏が生じます。そこで自分よりもお金を優先してしまってるわけですが、ではそのお金とはなにか?に対して関心を持つ必要があるはずです。それが自分を愛することであり、自分のすることを愛することでもあります。

生きるために必要であるはずのお金、そんなにも大事なものであるにも関わらず、関心がなく、そもそもの成り立ちも知らず、経済?みたいな状態でしかないのに、だったらなぜそんなにも大事なんでしょうか?ということになりはしないでしょうか?

いいなと思ったものがお金がないために手に入れれないんだとしたら、ではどうすればそのお金を作れるのかを考える必要があり、潤沢にお金が回っていないのであるなら、なぜ回ってないのかを知る必要があるはずです。

思った以上に高かった、ということは、自分の見る目がなかったわけではなくて、逆に見る目があるということです。例外的にくだらないものでしかないのに、法外な価格設定をしているということもありますが、基本的にいいものだからこそ高いわけです。お金がないからそのいいものを諦めて、手持ちで手に入れれるもので我慢するということは、自分で自分の価値を下げているということになります。本当は着たいと思っている服をお金のために諦めて安いもので済ますということは、そこに自分に対する嘘があるということで、でも他人はその人が身につけているものが着たいものだと思うわけですから、そこに誤解が生じるわけです。本人にしてみれば、それは誤解だと言いたくもなるのでしょうが、誤解を招いたのは誰でもない、本人でしかありません。それを河井寛次郎氏は、「物買ってくる 自分買ってくる」と言っています。

そもそもお金とは、自分が欲しいものを手に入れるためのツールではありますが、例えば醤油を買うとした場合、どちらも同じ分量として、某大手メーカーの添加物まみれの上3ヶ月で作られた1本300円のものと、小商いで昔ながらの仕込み方で2-3年掛けて作られた1本1,000円のものがあった場合、どちらを選びますか?

安い方がいいという選択肢があってもいいのでしょうが、また高い醤油を買えるのはセレブだから、と言いたくもなったり、贅沢だという風潮があるのもわかりますが、果たして本当にそうなんでしょうか?高い安いの問題以前に、健康的に問題ないのかどうか、またしっかりと丁寧な作り手によるものを買い支えないことには、そこにある伝統や誠意ある行為が途絶えてしまう恐れがあるわけです。

買うという行為は、自らの欲求を満たしつつも、作り手や販売者を応援する投票行為でもあるのです。そして、その意識でお金を使うからこそ、自身に対しても応援してくれる人の存在が現れるのだと思います。少なからず応援しようという意識がある以上、自身のやっていることに対しても関心がないはずがなく、お金の使い方にも関心を持っているからこそ、巡り巡って戻ってくるということになるのです。

先ずは、自分のしていることを愛することです。

SOL

2013/05/06

大麻とはなにか

北海道で大麻が自生していて自衛隊が出動したということが話題になったり、同地に大麻(オオアサ)という地名があったりしますが、奈良にも當麻(タイマ)寺というのがあり、香川には大麻山というのがあり、徳島鳴門市にも大麻町があって、更にその地には大麻比古神社というのがあり、また、加賀・山代には服部神社というのがあるのですが、そこは日本で最初に麻布が織られた地とされるとあります。日本における麻とは、大麻(ヘンプ)か苧麻(ラミー)であって、現在麻と呼ばれてるものは、ヨーロッパ原産の亜麻(リネン)です。


武田邦彦教授の著書に、『大麻ヒステリー』というものがありますが、ヒストリーの打ち間違いではなく、ヒステリーなわけです。

勘違いがあるようですが、大麻は麻薬で絶対ダメってのは、思考停止です。

天皇や伊勢神宮の神官の祭祀の際の正式な装束は大麻、注連縄や横綱も大麻、その位置付けは、ネイティブインディアンのセージのようなもので、そこに浄化や結界を張る作用を見出していて、また庶民の衣も大麻によったのですが、戦後GHQによって麻薬性の1点において取り締まられることになり、その結果、石油由来のものに置き換えられていっての現在なわけです。ということは、麻薬性の問題としての取り締まりは、石油を売りつけるための方便であった、とも捉えられるわけですが、少なからず経産省の官僚にはその認識があるようなんですね。

戦前までは自生や栽培が当たり前であったのに、戦後急速に麻薬でダメとなったのは洗脳以外のなにものでもない。なにも大麻解禁で吸いまくりを推進したいわけではなく、土地に根ざした植物を強制的に刈り取ることの不自然さに気持ち悪さを思うわけです。ちなみに、日本古来の大麻にはいわゆる麻薬成分はほぼ含まれないそうで、吸っても効かないとのこと。

単純に考えて、今日本全国から桜の木を全て切り倒したとしたらどうなんでしょうか?心情的にもおかしなことになるのは当然のこととして、植物は、土に根ざすことで大地とコミュニケートし、二酸化炭素を吸引し酸素を排出することで大気ともコミュニケートしているわけですから、確実にその環境に影響しているわけです。

そして、大麻による衣の有効性は、北欧の医療用の着衣や、中国の軍服に取り入れられていることからも明らかです。

そもそも大麻取締法は、麻薬取締法とは違い、大麻の場合、所持と栽培が禁じられているのですが、麻薬性を問題にするなら、吸引及び摂取をこそ禁じるべきです。この辺に大麻のいわくが潜んでいると思います。

そして現在においても、宮内庁管轄で栃木で大麻栽培をしています。法律で禁じておきながら、国はそれを蔑ろにしているわけです。

大麻は縄文からの日本の文化です。なにを他国に洗脳されていとも簡単に捨て去ってるのか、恥ずかしい限りです。

更に詳しくお知りになりたい方は、大麻布の研究家で今や権威でもあられる、吉田真一郎氏の動画をご覧頂ければと思います。また、次回、9/22(Sun)開催の『THE ZEN KAI vol.4』では、前出の武田教授をお招きして、同テーマについてお話し頂きます。

ここで言いたいのは、なにも大麻だけの話ではなく、勝手に思い込んでるだけで真実は全く違ったものだったってことが多々ある、ということです

戦後に意図的に歪められた歴史観によって、日本人が日本を誤解してることが多々あると思っています。

マザー・テレサが、愛の反対は憎しみではなく、無関心と言ってますが、だとしたら、愛とは関心を持つこと、となります。日本人が日本に対して無関心(=愛の欠如)過ぎることが、今現在の日本をおかしくさせているのだと思っています。

何卒、自国に対して関心を持って頂けますよう、お願い致します。

SOL

2013/05/06

決めると決まる

サラリーマンを否定はしませんが、往々にして上司なりの存在があるがため、先ずは意見をお伺い、ということに慣れてしまって、自分はどうしたいのか、を自分がわからなくなるみたいです。

そこで聞きます。

誰かが、「それやっていいよ」って言ってくれて初めて前に進むと思ってなかった?と。

それが、人に決めてもらってるということです。先ずは自分がどうしたいのかを自らに問い、その上で決断を下すことが先なんです。結果はどっちでもいいんです、というか、果報は寝て待つしかないのです。

ゴールを決めるからそこに至る道が見えるのは当たり前の話です。北極か南極かどっちにしよう・・・と思ってる以上、いつまで経っても到達するどころか、そこに至る道筋すら見えないわけです。

仮に本を出したいとします。とはいえ、別に書籍化することが目的ではないんですね。目的は別のところにあるわけで、しかしながら、出版したいとなれば人を説得しなければ叶わないということが往々にしてあります。内容に共感してもらったとしても、数字的裏付けがないと通らなかったりしますが、でもその数字的根拠なんて一体誰にわかるというのでしょうか?

そんな無根拠なものよりも、自分の確信を貫くことが本気ということになると思います。

本気でそこに意味を思うんであれば、自費でも出版しようと思えるかどうか、です。

実際、Floorの時、絵本ですが自費で2,000部作りました。当時、スタッフだった田所さんのイラストがヤバいくらい繊細な線画で、彼女はイラストレーターとしてやっていきたくて、いろいろと出版社に営業したわけですが、どこにも相手にしてもらえず凹んでたので、そしてワシはワシで思い入れもあったので、世の中が相手にせんのなら認めさせてやろうじゃないか!と絵本にしたわけです。それに応えて後藤繁雄さんがタダで編集してくれはったりして、とにかく世に出たわけですが、そんな彼女は現在、松本でtadokorogaroというギャラリー兼ショップをやっていて、また、風土倶楽部のリンゴのイラストや京都のひつじドーナツのショップカードなんかを手掛けたりしています。

今思えば、結果的にですが、雑誌仕事をやらなかったことが良かったと思っています。

また手前味噌になりますが、このお店をする際も、こんな場所はダメだとか、内装に際しても、こんな仕上げはあり得ないとか、散々言われました、けど、やるのはワシなわけです。その人達の意見を聞いて上手くいかなかった時、誰が責任を取ってくれるというのでしょうか?

確信がありましたし、持とうと思いました。自分が美しいと思うものに対して妥協する気はありませんでした。同じ人はいない以上、どこまでいっても所詮は自分の思う美しさしかわからないわけです。少なからず、新品ピカピカばかりが美しさではないと思ってましたし、経年変化による味は時間にしか創れない以上、それは人には作れないわけで、ということは、そこにも価値があるはずなのに、簡単に捨ててしまう現状に対してもの申したいという思いもあったわけです。

誰かに指示を仰いで、お墨付きをもらったからやる、とか、反対をされたからやらない、というんであれば、それは自分の人生を歩んでいることにはなりません。

そんなこと言ったって自分には決裁権がない、と思うのかもしれませんが、それは組織の上において、の話でしかなくて、また、決裁権を持つ者を口説けないんであれば、そのしたいことというのは先ず実現しないと思います。

本当にしたいことなら、人の反対を押し切ってでもやらねばなりません。

そのことで人生は拓けるのです。

なぜ人が反対したからといって思いとどまる必要があるのでしょうか?

もちろんそれが人を騙したり傷付けたり迷惑を掛けることであるなら踏みとどまるべきでしょうが、単に認めてくれないだとか意見が違うとかでしかないなら、放っておけばいいではないですか。

時が来れば決まる、なんてことはないです。

今、やると決めるからこそ、未来において実現するんであって、決断を先延ばしにすれば、実現も遠のくばかりです。

何事においても、決めるから決まるのです。

SOL

2013/05/05

私は自称アーティスト

先程、行政からの依頼を受けて、アーティストの活動支援をしているという若者が来たので、どんな支援をしてるの?と聞いたら、制作活動費の支援や京都在住のアーティストは京都から出ないので活動範囲を拡げるための支援うんぬん。

・・・よくわかりません。

ていうか、その支援をしている対象は、そもそもアーティストでもなんでもありません。

仮に支援というんであれば、作品を買い上げることです。活動に際して支援してしまえば、そのアーティストは死にます。

手塚治虫ら漫画家の巣窟となったトキワ荘のような場所を作りたいと、そのような箱を用意しようとする活動があるそうですが、それこそ本末転倒なわけです。そこに入れば成功できると思うような者は先ずモノになりません。

アートの語源は、美及びそれを創造できる技能ということです。であるなら、美とはなにかと根源的に問う必要があるはずです。にもかかわらず、自称するアーティトの作り出すものは往々にして、世の中からウケるであろうもの、綺麗に整ったもの、使用目的が明確なもの、言語で定義できるもの、だったりするわけですが、それらはデザインと呼ぶべきです。少なからず、美ではなく世の中の評価に向かい合ってるわけで、それは既にアートではないわけです。

本来のアート作品とは、なにに使うわけ?とか、意味不明・・・みたいな捉え方をされがちですが、自身にしか観えない世界であり、本人にしか聴こえない音を具現化している以上、そう易々と理解されるはずがありません。しかしながら、その領域で生きている者同士は瞬時にして理解し合えます。そしてその領域で生きている者は、間違っても自身をアーティストなんで呼ぶことはありません。肉体を持って生きてる以上、全体把握なんてできないわけで、だとしたら美に対しても根源を問い続ける必要があるということで、にも関わらずアーティストを自称できるということは、掴めるはずのない美の根源を掴んだと言っているに等しい以上、傲慢極まりないということなります。掴めないものを掴んだと言えてしまう感性でしかない以上、アートを語る資格すらありません。

悟ってると自認できることも同様です。悟りとはなにか説明できるはずもなく、真に悟っているのであれば、その存在は既に特別であるはずで、他者もそのことに気付くからこその悟りなはずです。故に自認しなければならない理由はどこにも見当たらないわけです。

また、ヒッピーという存在がいます。ヒッピーの語源はヒップ、丸みを帯びてあらゆることを包み込むというような意。対義語はスクエア。にも関わらず、ヒッピーを自認できるということは既にスクエアなわけです。わかるでしょうか?着古したT-shirtsをタイダイで染めてなお着る行為がヒップなんであって、タイダイTを買って着ながらヒッピーを自認されても、それは単にスタイルでしかありません。

美の根源を問えば、世の中の美の不在がなぜかという問題に行き当たり、それを解決するために自身を使って表現することとなり、そのための闘いが始まります。創造は情熱であり、裏を返せば怒りなわけです。いずれも第一チャクラ、赤のエネルギー、なんてことを言うから不審がられるのでしょうが、目に見える世界だけで成り立ってると思ってる時点で初めから話にならないわけです。

例えば絵を観るとします。表面上のものは一結果でしかないわけです。そこには描くための技術を習得するまでの時間があり、それを描く際の動機があり、描き上げるまでの時間があり、心の動きがあるわけです。また、その時間に音楽を聴いたり、風の匂いを感じたり、側で子供が戯れていたりするわけで、それらは全て否応なく込められ、また現れます。単に視覚的要素でしかない絵に、五感全てが含まれてしまうわけです。優れた絵描きともなれば、視覚的要素でしかないものに五感全てが影響するという意識が当然あり、それを視覚的要素に集約することができるからこそ、優れているわけです。それは立体であっても同様で、音楽となれば聴覚的要素に集約させるということになります。であるなら観る際も、立ち現れた結果のみを見聞きするのではなく、それ以前にあるものを五感全てを動員して観るという姿勢が必要だということです。

話は戻って、美の根源を問う結果、自らが見出した解答を表現することにより、そのことによって世の中に影響を与え、変えることになるわけです。その行為こそがアートであり、悟った者の努めであり、ヒップな存在なはずです。それを自称及び自認できるということは、その目的は、世の中に問題提起をすることではなく、所詮認めてもらいたいという自らの欲でしかない、ということになるはずです。だからこそ、自称アーティストに対して違和感を持つ人が多いのだろうと思います。

誰一人として理解してくれなかったとしても美の根源を問い続けている者に対して、金銭的援助はかえって辿り着くべき道のりを遠くのものにしてしまうのです。そうではなく、その姿勢に対し理解を示してあげることなんだろうと思います。そして支援と言うんであれば、自身も美や世の中の問題の根源を自らに問う姿勢こそが、一番の支援となるはずです。

目的は肩書きを持つことではなく、納得がいく世の中を構築することなのではないのでしょうか?

自身が認められれば、それで事足りるのでしょうか?

問題は山積しています。それを所詮他人事、と放置することなく、我が事として捉え、問題解決に向かえる者こそが、真のアーティストなんだろうと思います。



SOL

2013/05/03

個性とはなにか

オリジナリティとか個性とかを開発したり伸ばしたりできるとの錯覚があるようですが、それは頭で、今世にないもの、新しいもの、物珍しいもの、を考えてるに過ぎないということです。

コンプレックスと言いますが、それは人と違う部分、少数派に属する部分、だからこそ、恥ずかしいと感じたり、隠そうとしてみたり、自分で卑下をしてみたりするものだと思うのですが、それこそが最大のオリジナルであり、個性なはずです。

真似しようとも真似できない部分であるからこそ、そこをこそオープンにし、活かすことで、オリジナリティとなるのです。

往々にして、人が評価したものを理解しようと齷齪するものだと思いますが、大体人と自分が同じものを見ているかどうかなんてわかりません。

同じ看板を見ても、瞬時に何屋か見抜ける人がいるかと思えば、全く読み取れない人もいるわけです。何屋さんかわからない人には所詮説明したところでわからないわけです。それは、その人の中にあるカテゴリーの中で判断してしまってるからなわけで、それを取り払えない以上、無理ということになるわけです。また、ある空間を味わったとしても、ディテールまで目を凝らし音を拾いする人と、なんとなく過ごした人とでは、得る感想は全く違ったものになります。単純な話、同じ映画を観たはずなのに、ストーリーだけを理解した人がいれば、それすら理解できてない人もいて、また、そこに潜む演出まで見抜ける人もいるわけです。絵画や骨董なんて正にその極み。土をこねた小汚い歪んだ壷としか思えない人と、雷に打たれたような衝撃を受ける人もいるわけです。

しかしながら、ダ・ヴィンチの絵しかり、評価がついたものに対しては、疑いようもなく、素晴らしいと言えてしまうわけです。そこでは本人の目は機能していないということになります。

正しいか間違えているのかは、時代が評価してくれているわけですから、残ってきたものに共通するものがなにかを理解し、今あるものをその基準に載せることで、それが後世に残るかどうかわかるはずなのです。

話は戻りますが、自身の偏り、コンプレックスと呼ばれるものを否定することなく肯定し解放することで、その目を養うことになります。見たくない部分を直視するからこそ、秘した部分を見抜けることになるのは当たり前の話です。

物珍しさを考えて作り出すことはさして難しいことではありませんが、それを一旦やってしまうと、それ以上のことを求められ応え続けなければならなくなります。紅白の小林幸子がその最たるもの。どこまでやれば気が済むのかという。だから無理が生じてトラブルになった、とは言い過ぎでしょうか?

そうではなく、自身に宿る人と違った特異性、偏った部分をこそ愛することで、オリジナリティは否が応にも発揮され、その結果、五感は冴え、表面上に立ち現れる前のカタチなきカタチを観、音なき音を聴く、能力が養われるのだと思うのです。

百人一首のクイーンが言います。残り2枚になれば、読まれる前であるのにも関わらず、どちらが読まれるのかわかる、と。別に彼女はいわゆる超能力者でもなんでもありません、がそれこそが自己開発による、能力を超えた能力である以上、本来的な超能力なんでしょう。

否定されることを嫌う人が多いですが、今一度自身に問うて欲しいと思います。

自身の内に、自身に対する否定はありませんか?

コンプレックスを有していたりはしませんか?

自分は人より劣っていると思っていませんか?

それがあるとすれば、それこそが嫉妬の因であり、他者からの否定を呼ぶ因であるのです。

この世に劣っている人はいません。

才能がない人もいません。

魅力がない人がいるわけではないのです。

単に、自分が自分に対して、また人と比べて、自分は大したことがない、と信じているに過ぎないのです。

人と比べて勝ってるや劣ってるやと思うのではなく、自分の持って生まれたものがどれだけ素晴らしいものか、今一度味わってみることだと思います。それをせずに、人の能力ばかり見てしまうから卑下が起こるのだと思うのです。先ず自分の内に眠るコンプレックスとしてしまってる部分をこそ直視すべきなのです。

正解を求め、それに即して生きることが正解なのではありません。

先ずは自身の真実を掴み、その上に生きることが正解なのです。

誰一人として同じ肉体を有していないのです。

人と同じことができないことを悩む必要はありません。

学校教育で受けた歪みからそろそろ自分を解放する必要があるのだろうと思います。その結果、自身にしかできないことが自ずから観えてくるものだと思うのです。

SOL

2013/05/03