At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

BLOG ブログ

5月

本当の望み

学ぶとは、まねぶ(=真似る)こと。

学問とは、真似た後に、そこを問うということ。

守・破・離で言えば、学ぶことで先ずは形式を守り、それを問うことで破り、更に離れることでオリジナルとなる、ということ。とはいえ、離れた結果、最初の守るべきこととイコールになってることが多い。ただし、守っただけのものと、離れた後に原点に立ち返ったものとは、似てはいても確実に非なるものとなっている。

現在の教育は、守ることを強制して、それを破ることを禁じ、離れたものは排他する。

本来は、守ることの意味と重要性を説くことで主体的に取り組む道筋をつけてやり、その先にそれを問い否定し破ることの勇気を与え、離れたものを褒めることにあるんだろうと思う。

往々にして、教わったことや学んだことの中から外に出ることができないだけであるのに、自ら導き出したことではないあるべき論を振りかざす、という守止まりか、もしくは学ぶことをせず自らの感性だけで認めさせようと躍起になっている、守の欠如した破である場合が多い。

前者は、白洲次郎氏がケンブリッジ大に留学中、半期授業をまとめたレポートを提出した際、担当教授から、「次郎、これは私の考えであって、あなたの考えではない。人の意見を聞いているだけでは駄目だ。まずはその意見を否定することから始めないといけない」と言われたということに通じる。いわゆる思考停止。

後者は、いきなり破ったつもりでも、それは型破りなのではなく、形崩れか形無しでしかない。いわゆる自称アーティスト。

学ぶことは、生きている年長者から単に教わるということではなく、古典や歴史上に残っているものも含め、それらを因数分解することで共通項を見出し、それを踏襲し真似る(=学ぶ)ことにあると思う。

そういう意味で、教わることと学ぶことは全く意味が違うということになる。

自ら学びそれを問う姿勢をこそ本来教えるべきことであるにも関わらず、正解は必ずあり、それは1つである、と教えるからそれを破ることに怖れが生じるんだろうと思う。

人と同じであらねばならないというあたかも正解であるかのような教えに嵌る必要はどこにもない。そもそも同じ人はいないということを学び取ることが重要。

教えられたことが絶対的に正しいという保証はどこにもない。自らが理想とする生き方を実現している人及びした人を真似、その思想を解し、その上で否定して破り、そして離れることで自らの道を歩むこととなる。

本当に望んでいる、実現したいこととはそこにあるんだろうと思います。

SOL

2013/05/25

宗教なんて大嫌い?

『平和の祈り』

ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。

争いのあるところに赦しを、

分裂のあるところに一致を、

疑いのあるところに信仰を、

誤りのあるところに真理を、

絶望のあるところに希望を、

悲しみのあるところに喜びを、

闇のあるところに光をもたらすことができますように。

ああ主よ、わたしに、

慰められるよりも、慰めることを、

理解されるよりも、理解することを、

愛されるよりも、愛することを求めさせてください。

わたしたちは与えるので受け、

赦すので赦され、

自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。

アーメン

聖フランチェスコ

宇宙は、常にプラスとマイナスで0となる。故に1の反対は0ではなく、-1。

目に見える世界だけではなく、厳然と目に観えない世界も存在しています。それはなにも霊魂やオーラなどのオカルト的なことだけを指すのではありません。現に紫外線を嫌がり、赤外線を利用してるわけですが、肉眼では見ることができません。

仮に1の反対が0であるなら、真ん中は0.5でしかなく、既に真ん中はズレています。数字に置き換えるからわかりやすいだけで、基本、0と1とで認識することを唯物論と呼ぶと同時にデジタルの世界となります。コンピューターは0と1だけで成り立っています。

少なからず一神教の世界では、1の反対は0だという認識の上に成り立っているんではないでしょうか。

仏教を学ぶことによって、明確に1の反対が-1であり、故に真ん中は0=無であるということへの理解が及びます。

ちなみに、1とは有、-1が空。

その1と-1との関係を用いることを論理と呼びます。

上記、『平和の祈り』の「理解されるよりも、理解することを」が、情緒的な問題ではなく、真理であるということを数学的論理を用いて解いてみます。以下。

理解されたいと思っている=理解されていないと信じているわけで、故に理解されないという結果に至ります。だとしたら、理解をしてあげようとするということは、理解する側の自らへの理解がないことには他者の理解なんて到底できない以上、自ずから理解に至ってるわけで、その時には既に理解されたいなんて欲求もないはずです。

「与えるので受け」というのも同様で、与えられたいと思っている時点で、足りていないと信じている以上、いつまで経っても満たされないのは当然のこととなります。今あるものに対して感謝ができないから、更に足りないという現実を味合わなくてはならないという結果に至るのです。吾唯足知。ただしここで陥りやすいのは、足りているのだと自分に言い聞かせ、頭ではそう一生懸命信じようとした所で、与えることができないんであるなら、結果は足りていないという現実を味わうしかないわけで、だからこそ考えるのではなく、自らが本当になにを信じているのかを直視する必要がある、ということなるわけです。

では、頭と心=意識と無意識をどう認識するのか。心理学の世界では自分の中には2人の自分がいる、ということは最早常識です。

いわゆるヴィパッサナーという、釈迦もやっていたという瞑想法があります。それは、基本自分の呼吸だけに自分がなるということを目指しますが、なかなかそうは簡単ではなく、やれ背中が痒いやの、足が痛いやの、お腹が空いたやの、いちいち頭がうるさいわけで、でもその際にその声に気付いて、妄想妄想と打ち消して、また呼吸に戻る、ということの繰り返すのですが、その最中のある時ふと、今まで痒いと思っちゃ掻いてたのが自分だったのに、それを妄想と打ち消してる自分がいる!と気付くわけです。これ、誰やねんと。

それ以来、自分の中では、下の自分と上の自分と呼んでいますが、きっと世間では下をエゴと呼び、上を本質とか真我とか呼んでいるんだろうと思いますが、その存在に気付いてない人はいないはずで、ただそれが明確に区分されずに苦しんでるんだろうと思いますが、とにかく、上の自分にいる時間をいかに長くするのか、ということを意識するようにした結果、集中なんてしようとしてした集中は集中でもなんでもなく、上の自分で過ごしてる時間を集中と呼ぶのだ、ということ等に気付いていくわけです。

日本人としてこの国に生まれたということは、ものすごくアドヴァンテージを持っているということに先ずは気付く必要があると思うのです。日本語の中にどれほど仏教由来の言葉があり、更にそれを日常的に使っているにも関わらず、無宗教ですっていう逃げはいい加減やめて、仏教の論理性を理解し、自らに向き合うという瞑想や坐禅をやってみることで、自ずから満たされていくということに気付いていくべきなんじゃないかと思うのです。

結論として、赦されたいのも、受け取りたいのも、理解されたいのも、認められたいのも、幸せになりたいと思うのも、欲する心である以上、今足りていない、現在は不幸であると信じているから発生する思いなわけで、だからこそ、足りてない、不幸という現実を味合わざるを得ないわけです。

誰のせいでもない、全ては自分です。

最後に以下の言葉の転載することで締めることにします。

『日本人に贈る言葉』

あなたに差しあげるメッセージは次のことに尽きる。

「日本が古来受け継いできたものに忠実でありなさい」。

仏教が興ってから二千五百年たつのに、その教えはいまだ真に生かされてはいない。

しかし二千五百年が何であろう。時の巡りの中のほんの一瞬にすぎない。

仏陀が説いた不殺生・非暴力の花が、いまはしおれかけているように見えるが、それを精一杯、満開に咲かせなさい。

私には見える 闇の中にこそ光が存在するのが・・・

 マハトマ・ガンジー

(「パリジャン」1938年12月24日)

SOL

2013/05/18

今後のイベントのお知らせ

6/13(Thu)

坐禅スペシャル』は

*今日現在、13:00の回が残5席、17:00の回が残1席

6/29(Sat)

可能性の空間

*京都精華大でのレクチャー

7/10(Wed)-15(Mon)

『伏見麻佳+SOLのモロッコ』展

*麻佳の古着リメイクと自衛隊の型落ち革製グローブのリメイク+SOLの買付によるモロッコ雑貨展

8/15(Thu)-19(Mon)

『縒る遊び』展

*陶芸家・石井啓一とキャンドルアーティスト・鈴木りえの2人展

9/11(Wed)-30(Mon)

有瀬龍介『墨』展

*濃度によって七色に見えたりするという、奈良の古梅園の墨を使ってのドローイング展

9/22(Sun)

THE ZEN KAI vol.4

*今回は、武田邦彦教授がゲスト

10/9(Wed)-14(Mon)

小峰英利『器』展

* 元彫刻家による関西初の器展

SOL

2013/05/18

頭を支える体

怒られることが嫌って思っている人ってすごく多いように思うのですが、それは裏を返せば、怒らせないように行動してるってことになると思います。

嫌がっても、怒るのは相手。

相手は怒りたいから怒ってるだけで、別に自分に原因があると思う必要ないと思います。

こちらを好きになるのも嫌いになるのも決めるのは相手。

自分を認めるかどうかを決めるのも相手。

仮に怒られるのが嫌なんだとしたら、それは怒られる原因となるなにがしかの後ろめたいものを抱えてるから、なのではないのでしょうか。

もし、なにも後ろめたいものがないなら怒られたとしても見当違いでしかなくて、なんかこの人怒ってはる、くらいにしか思わないもんだと思います。

同様に、自分を晒すことを怖がってる人も多いと思います。

それに対して、恥ずかしいことだとか、はしたないことだとか、傷付くんじゃないかとか、見下されるんではないかとか、そんな思い込みを持ってるんだと思うんですが、それがコンプレックスなわけで、ただ、自分を生まれてから一度も晒したことがないから怖れているはずで、にも関わらずやりもしていないことの先を心配して結果を予測してしまってるわけで、それは明らかにおかしな話になります。

誰でもができることをできるということも1つの能力ではありますが、そこでもやっぱり上手い人と下手な人がいて、ほぼその範囲の中での相対評価で、労働条件が決まってるわけです。

でも、その人にしかできないとか、限られた人にしかできないとか、それを見出せば、その価値に対しての絶対評価となる。

みんなができることなら、放っておいても誰かが担うし、別に自分が担ったっていいわけで、ただ自分にしかできないなにかに集中することが結果的に全体への寄与になるんだろうと思います。

誰もができることをさらに上手くできるようになることを出世と呼んでるんだとしたら、努力の割りに報いが少ないと思う。

今の世の中、みんなができることができるようになる必要があって、それ以外の特殊能力はさして必要とされていないような風潮を生み出してる。

みんなができることが上手くできない人は落伍者とされる。

頭を使って仕事をしている人が、体を使って仕事する人をコントロールするシステム。

頭と体はパラレルなのに、頭が優位を司る。

頭は共通を探り、安定を求め、安心したいもの。

ただし、物質世界では、差異しか見出せず、不安定でしかなく、心配しかない。

体という感覚が先にあって、それらを共通化させるために頭があるはずなのに、体の感覚を脇において、頭が共通させる方向へ感覚を矯正させる。

自分の体の感覚を無視して、頭という妄想の世界を優先してるのが現代で、養老孟司氏はそれを脳化社会と呼んでるんだと思う。

考える前に感じることが先にあるはずで、にも関わらず、先ずは他者の顔色を伺い、空気を読み、自身の感覚よりも、人と同じを求める。自分の感覚が鈍り、体がストレスを抱え、それでも尚無視することで病となるのは必然。

そう思えば、健康とは感覚に対して素直であることで保たれるものなのかもしれません。

SOL

2013/05/17

東京マインド

高校卒業の18歳までを生まれ故郷で過ごし、その後大阪で3年(大学中退)、東京で15年、関西に戻って3年、で現在。

ずっといる場所の魅力や価値観は、井の中の蛙とか灯台下暗しとでも言えばいいのか、そこにいる者には当たり前過ぎてなかなか客観的には把握できないものです。ベタな例で言えば、ケンミンSHOWという番組でよくありますが、その地方ではなんの疑問もなくみんながやっているために、そのことがあたかも全国的標準であるかのような錯覚に陥ってしまってて、それをその地方だけの独特のものですよ、と指摘すれば、一気に少数派だと知り、ちょっとしたパニックに襲われる、という場面に見受けられるというような。

生まれ育った加西市というところに、西国三十三所の二十六番札所の法華山一乗寺という天台宗のお寺があります。

孝徳天皇勅願寺で、開山は法道仙人。創建が白稚元年(650年)ということは、飛鳥時代にあたります。ちなみに、御本尊は聖観世音菩薩。

山中の寺で、金堂は舞台作りになっており、その中腹にある三重塔は国宝とされています。そのことは知ってはいましたが、別に子供の時から何度も見ており、古びれた小汚い、散々階段を昇らされる面倒臭い場所、くらいな認識でしかありませんでした。

それがいい加減大人になった2006年に、上野にある東京国立博物館で開催された『天台宗開宗1200年記念 特別展 最澄と天台の国宝』展に行った際、入ってすぐに『聖徳太子及天台高僧像十幅(国宝)』の展示があって、ふと解説に目をやると、兵庫県加西市一乗寺蔵となっていて驚いたという記憶があります。なぜ東京で地元の国宝を目にしているのかという。もちろんそんなものがあることも知らなかったのですが、というより、基本公開されてないので、見る機会もなかったので仕方ないのですが、それから改めて一乗寺に行くと、その後に見たいろんなお寺と照らし合いながら、ようやく客観的に見ることができるようになり、その独自性に改めて気付いたり、より細部にまで目をやれるようになったのです。

同じように、海外に出ることで日本の良い部分と悪い部分にも気付くものです。

その上で、京都という場所は、街の規模といい、都会度といい、文化度といい、なにかと都合のいい場所。とにかく京都ブランドが圧倒的で世界に通じるレベル。それがぬるま湯感を生み、だからなのか、京都の自称アーティスト達はなかなか京都から出ないということになるのだろうと思います。そのことで客観性が育まれず、よって町家という様式もどんどんと命の宿らない建材によるものに置き換えられていっている現在なんだろうと思います。とはいえ、元公家であったり、300年以上続くような老舗の当主の目の高さには驚かされることも多々。ただそういった存在の方はあまり表には出てこられないものです。

他方東京は、世界的に見ても土地面積の広大さと人口の多さは世界一レベル、学歴の偏差値の高さも日本一でしょうし、とにかく日本一が一番多いところではないでしょうか。そして地方出身者も多い。高校を出てすぐに、自分の価値観も確立していない中、東京の大学に入り、学問するより遊び呆けて、なにがしたいかわからないまま知名度や安定度なんかを拠り所に就職してしまえば、東京の価値観が自分の価値観に置き換えられるのは言うまでもないと思います。

さて、東京の価値観とはなにか。

多い、高い、大きい、ことに価値があるという思い込みなんだろうと思います。

学歴の高さ、有名度の高さ、収入及び貯蓄の多さ、会社規模の大きさ、売上高の高さ等々。それらに価値がないとは言いませんが、それらは単に結果でしかありません。にも関わらずそれを前提に据え目標とするから、おかしなことになっている現在なんだと思います。その価値観に依る考え方が、今日本全国に及びつつあります。

わかりやすい例で言えば、ゆるキャラによる町興し。ゆるキャラがかわいいのかどうかはさておき、本来的にその土地に魅力があり、それをその当事者が認識しているのであれば、そんなことしなくても知名度はあるはずで、ないからこそ、それを上げるために、ゆるいキャラを使って売名をするんでしょうが、それで知ってもらったところでその地を訪れてみたら看板倒れでしかなく、二度と行きたくもない、となった場合、そこになんの意味があるのでしょうか。

有名になるために必死になってやってみたものの、いざ周りには本当に認めてもらいたい人の存在はなく、いわゆる太鼓持ちだけだった、という笑えない話はよくあります。

それを卑近な個人的に置き換えれる例えですれば、ある人との会話の中である人物名が出たとします。その相手もその人物を知っている、そこまではいいのですが、問題はそこからです。その人物を私の方がよりよく知っている、私の方が親しい、というアピールが始まることが多々あるんですね。ただ、そのためにいろいろとその人物についての情報を述べられるのですが、どうも大して知ってないということを本人が露呈していることが多いのです。仮に本当に親しいであるのなら、その相手に対しての情報をそんな短時間で述べられるはずないですよね?一緒に過ごした時間が長ければ長いほど、その相手に対しての思い出が積み重なっているわけで、ましてや知っていることを言うまでもなく、そこに付き合いがある以上、そんなアピールは意味がないわけです

2013/05/15

仏教ing

*Meets次号用に書いた原稿ですが、現在発売中の号で終了となりましたので、こちらにて掲載致します。

「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」

有名な平家物語の冒頭。

その沙羅双樹で有名な東林院という塔頭が、臨済宗の妙心寺山内にあります。

毎月、うちのお店で坐禅の会を催しているのですが、その指導者である羽賀和尚は、岐阜にある妙心寺派蓮華寺の住職であり、現在、妙心寺有する花園大学の学生寮の塾頭もされていて、その出会いは端折りますが、和尚からのご縁で、前出の東林院さんで、和尚にも出演頂いての『THE ZEN KAI』というチャリティイベントを行わさせて頂いたことがあります。時期はちょうど2年前、沙羅の花が咲き誇ってたのが記憶に鮮明です。

さて、そんな羽賀和尚が10年程前、この東林院さんでお手伝いをされていたことがあるそうで、その頃、「花を見ている 花も見ている」という言葉に出会われたそう。それはなんと以前『眼聴耳視』の回で紹介させて頂いた、河井寛次郎氏によるもので、当時和尚は河井寛次郎記念館にその言葉の由来を探しに走られたそう、ですが、その時におられた方には対応頂けず、後日、お孫さんであられる、鷺珠江さんからお手紙にてご連絡を頂いたとか。さすが仏教、ご縁だらけ。

ちなみに「花を見ている 花も見ている」の説明は、同じく寛次郎氏の言葉、「鳥が選んだ枝 枝が待っていた鳥」という言葉をお伝えすることでどーすか?ということにしたいと思います。

さて、諸行無常って言葉、一体どういう意味でしょう?と改めて羽賀和尚に伺いに。

「どうやらネガティブなイメージを抱かれてる方が多い気がしますが、無常は常ならずという意味であって、無情ではないのです。どうも平家没落の物語のため、情け容赦ない(=無情)や衰えゆくというような意味で捉えられがちですが、そうではありません。私なりに言えば、ing、即ち現在進行形、移ろいゆく様ということでしょうか」。

お見事!

「ですから、マンネリとかおっしゃいますが、同じ瞬間がないということをお釈迦様は無常と呼んでいるわけでして、変化しかない以上、マンネリ状態なんてあるはずはなく、それを感じている本人が怠惰であるということになりますね」。

チーン!

「今でこそお寺は、国宝や文化財とされ、重々しさや渋さを醸し出し、それをありがたがって下さる皆様にとっての観光地となっていますが、当時においては建築にしても発信する文化にしても最先端だったはずなんですね。ingを説いてる仏教が過去形になっている現在とは、まるで公案(=禅問答)のようですね」。

そんなingな羽賀和尚の袈裟は、アメリカの現代アーティストのアンディ・ウォーホルの花柄プリントをコム・デ・ギャルソンがデザインしたストール、という代物をアレンジされたもの。もちろんお財布もギャルソンのもの。

さぁ葬式仏教と言うなかれ。本来的な仏教ingを体現する和尚有する京都、どーすか!

2013/05/15

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