At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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4月

理解という誤解

私、天使見えます♡

私、わかってます!

みたいなアピールする人、特に女性に多いですけど、あれってなんなのでしょうか?

例えば、全ては繋がってる、全ての責任は自分にある、お金はエネルギー!等というような言い回しを多用できるという感覚のことを指してるんですが、であるなら、なぜ繋がってるのにも関わらずの特に異性への不理解や、自分にあるはずの責任であるにも関わらずの言い訳しまくりのガン転嫁が起こるのでしょうか?

そもそも、わかってるアピールをしなけりゃならん時点で、わかってないアピールをしてしまってるってことには気付く必要があるようです。

天使が見えようが見えまいがそんなことどっちでもよろしいけど、仮に観えてるんであるなら、どうぞ、それを世の中のために活かして下さい。少なからず天使であるなら天からの使いである以上、そこにエゴなんてないはずで、正当化のために使われるだけなんてたまったもんじゃないはずですね?それなら天使ではなく、私使とでも呼ぶべきだと思います。

女性は往々にして直感力が優れてるものだと思います。直感とは相反する2つのものを同時に掴める能力と置き換えてもいいんだと思いますが、だからそこに矛盾をきたし、だから言葉にならない。ただその矛盾はこの物理次元においての矛盾であって、1つレイヤーを上げれば矛盾でもなんでもなく、ちゃんと同時成立するんですが、レイヤーの概念への認識が薄いから、矛盾しないのに矛盾して、矛盾なんだけど矛盾じゃなくて、あー誰か答え教えて~とスピ系に走り、その中で見つけたワードに飛びつき、さも自分の言葉のように使う、ということなんだろうと思うわけです。

レイヤーについて言えば、webは4次元で、この現実世界は3次元なわけです。例えばウィキペデアを書籍(3次元)化できないということは理解できるでしょうか?仮にしようとすれば、横開きと縦開きが同時にできなければならない。もう少し言えば、料理のレシピ本を作るとします。その際に考えられる切り口として、以下、

・料理名(カレー、唐揚げ、ハンバーグ等)

・料理法(煮物、焼物、蒸し物等)

・素材別(大根、人参、じゃがいも等)

などが考えられます。

これをwebでやるとすると、横軸に料理法を置いて、縦軸に素材を置いて、その交わる1点で料理名が出てくる、ということができるわけです。

大根を使った煮物料理、とか、蒸し料理でキャベツを使ったもの等。

逆に言えば、そういった検索方法は、物理次元(紙物の平面でしかない書籍)では不可能なわけです。

このレイヤーの違いを認識して、今どっちの次元での話なのかを自己把握した上で、言語化できてこその理解なわけです。

ごちゃっと矛盾でない矛盾、みたいなことをわかる者同士でしか通じない感覚で向き合うから、それ以外の別の感覚とは繋がりようもなく、そこで相手に問題があると転嫁が生じるのだと思うのです。

感覚的なものを他者の言葉を知ったことでわかった気になるのは構いませんが、それはわかっているのではなく、単に知ってるに過ぎません。

理解とは、読んで字のごとく、理(ことわり)を解する、わけです。

理とは、法則性ということです。

それを解することを、理解と呼ぶわけです。

別の例えで言えば、モナ・リザは凄い絵なわけです。

ではなぜ凄いのでしょうか?凄いとされてるから凄いと言うんであれば、なんらそこに理解はありません。なぜ凄いとされているのか、を解することが必要なわけです。少なからず、ダ・ヴィンチは美の法則性の上に描いているわけです。

鼻の中心から、フィボナッチ数列による螺旋が見て取れます。その数列は、自然界のあらゆる場面に見出せます。わかりやすいのは巻貝のそれです。

無意識に人は、そこに美を見出します。それを意識して表現に取り入れることができたからこそ、凄いと直感できるわけです。逆にその直感はどこからきたのか、を自らに問うこと、無意識を意識化することが、自らの責任なわけです。

それができずして、わかってるというというアピールは、単に直感を肯定して欲しいという甘えでしかありません。もちろん、甘えをわかってあげることはできますが、直感したものを肉体が違う者同士がわかってあげることはできないのです。

男性には生理も出産も経験できない以上、そこに感覚的理解が生じるはずはないのです。だからこそ、想像力を駆使して、心で寄り添うことはできたとしても、それはあくまで想像の範疇を出ない、というエクスキューズは必要なわけです。

理解を求めるのであるなら、自身が理に対して解する努力が必要なわけで、また、本質的に繋がりたければ、その努力は自分を殺さないとできない以上、自分を殺すことで他者と自らを並列に扱うことになるわけで、故に繋がれる、という結果に至るのです。

理とはなにか。

それは、そこここに転がってますので、自身の体を使って掴んで頂くほかありません。

要は、諸行無常ということです。

この言葉に対してもかなりの誤解が見受けられます。

当然、理である以上、そして、これを解することは、仏教での悟りの第一段階とされるそうなので、そう簡単なものではないはずです。ただ解すれば、こんなに簡単な話もないのですが、そこに向き合うことなく、わかってよ、なんて、それこそ、先ずは私を殺せ、という話なわけです。それ以前に、殺すべき私とはなんぞや?を自らに問う必要があり、それをしていないから、自らをわからず、故に信じるべき自分の不在=自信の欠如ということなわけです。

自信とは、自らを信じるわけですから、信じるべき自分を知ってない時点で信じようもないわけです。私と自分。あれ?2人いますね、ってことに気付いてない人はいないと思いますが、そうです。レイヤーの違う私と自分、2人が同時にいるんですね。これは心理学の世界では常識です。私=頭、自分=心と置き換えてもいいでしょうが、だからこそ、心に向き合うことが必要だと思うのです。

SOL

2013/04/28

臨時休業のお知らせ

急遽なことで大変申し訳ないのですが、また、『稲岡亜里子写真展』開催期間中にも関わらず、本日より、4.30(Tue)まで臨時休業とさせて頂きます。


5.1(Wed)からの『MAROBAYA展』より営業再開させて頂きます。

何卒、ご了承の程、お願い致します。


SOL

2013/04/25

したたかであれ

したたかという言葉はなんとなく、ズル賢い、とか、計算高い、とか等のネガティブなイメージを抱いてしまってる感じがしますが、漢字にすれば、「強か」と書きます。読んで字の如く強さってことです。

往々にして人は、強くあろうとしたり、強い自分だけで生きようとしてみたり、強い人に見せようとするわけですが、その結果、自分は強いと錯覚をしてしまうもの。しかしながら、強いだけの人間なんていません。確実に弱さを有している以上、弱い自分を隠して、それを見抜かれることに恐れを抱いたり、他者の弱さに触れて凹むものだと思います。

そうではなくて、本来的な意味での強かさって、弱さを晒すことで、しゃーないなと言わしめる、みたいなことで、だから、ちょっとズルさを感じてしまう、ということの結果、上記のニュアンスで捉えられるのだと思うのです。

だって、こっちは頑張って強がってるのに、なんでそんなに簡単に弱くあれるのよ???というような感覚なんではないでしょうか。だったらその弱さ、素直に表現してみてはどうでしょう?やっぱりズルいヤツと思われたくないから、強くあろうとしてしまうのでしょうか?

強いのではなく、強がっているだけだということを、先ずは認めることなんだろうと思うのです。

強いだけの人がいない以上、弱いだけの人もいないということ。

で、あるなら弱さを見せることは弱いことではなく、弱さを晒すことができることが真の強さであり、即ちそれが強かってことなんだと思います。

SOL

2013/04/27

空間とはなにか

いわゆる気の利く人、気の遣える人、というのがいます。同時に、利かず、遣えずという人もいます。

その線引きがどこにあるのかは定かではありませんが、先ずもって、気が利かない人というのは、気になってないから利かないわけで、往々にして気を遣われてても気付いてない、ということになります。

それは、気は観えないのだからないんであって、ないものを利かしたり遣えたりするはずがない、という前提なんでしょうか?

それとも、観えずともあることはわかってる、けど、どうすることで利かしたり遣えたりするのかがわからない、ということなのでしょうか?

気遣いとは、心遣いとも置き換えられます。

気は観えないと否定したとしても、さて、心も観えませんが、果たしてその存在までも否定できるでしょうか?

心とはなにか。

その定義・解説は、心理学等に委ねることとしますが、気なり心なりを遣いたければ、もちろんそれだけに関わらずあらゆる物事においても否定しているものを遣いようがない以上、先ずはその存在を肯定することから始める必要があります。

さて、「空間」について。

読んで字の如く、「空」の「間」、間仕切られた空きのある部分。

空きとは、空き地しかり、空き家しかり、ないのにあり、あるのにない、というものです。

ということは、空間を構成するということは、物と物との「間」にある、「空(あき)」の部分をも満たしてこそ、成り立つのだと思います。

その「空」に漂うものは、「気」であって、故に「空気」なわけです。ここでいう空気とは、二酸化酸素や酸素ということではなく、いわゆる読んだり読まれたりしてる、例のアレです。

その「気」とは、目に観えないにも関わらず、利いたり、遣えたり、置いたり、回したりできるようです。また、それを持ちの良いものにしてみたり、悪くしてみたり、本来は自由自在のはずなんですが、観えないのをいいことに、軽く扱うからこそ、気のない素振りをされてしまう、ということになるんだろうと思います。

逆に言えば、観えないにも関わらず、丁寧に扱うからこそ、「気」が見えるカタチとなり、気になる存在とされるのだと思うのです。

その上で、物と物との間を満たすことに意識を置いたとして、とはいえ所詮扱えるのは、物でしかありません。

例えば、なにもない(とされる)空間に、物を置くとします。

ここで必要な要素として、デスクとイスを1セットとした場合、それをどうやって選ぶのか、という作業が発生します。

・とりあえずテキトーに買ってくる

・使用目的によってのベストであろう選択をする

・そもそもデスクの持つ機能とは?イスとしての条件を満たすものとは?と根源まで遡った上で、選択肢を見直す

・直観的なイメージをカタチに起こす

等々。

なにが正解というわけではないと思いますが、この作業の如何によって、なにも置かれていない「空」の部分に影響を与えることになる、というわけです。

ここまでくれば最早説明の余地はないと思いますが、心に向き合ってる度合いに応じて、気の持ちが違う以上、それが良かったり悪かったりする、ということです。

この世の中には、目に観えずとも、確実に存在しているものがあります。

それを観えないからない、としてしまうことを合理化と呼んでいるのかもしれませんが、観えてないだけであるものはある以上、そこに無理が生じるのは当たり前の話です。

少なからず観えずとも、感じ観ずるわけで、だったら、それを肯定し、受け容れた上で、遣いこなす意識を持つ必要があるんではないでしょうか?

放射能や気化したサリンは見えません。

人間のエゴのために生み出されたものは、気の持ちようが悪い以上、そんなものが充満した空間は、やはり気配的に違和感があると思います。

なにもないのではなく、観えないだけで、なにものかが満ち満ちているのが空間。

どうせなら、それを意識して気の利いたもので満たしたいもんだと思います。

SOL

2013/04/25

寺ではない寺

最近、お気に入りの空間があります。

石川県・金沢にある、鈴木大拙館。

特にレアな高級素材を使ってるわけではなく、また、いわゆるデザインしましたっていうわざとらしさがないにも関わらず、なぜ?を突き詰めた結果のカタチがあって、それこそが本来的なデザインってことなんだと思いますが、そこに一切の妥協が見当たらない場所。

精神性を帯びた空間、静けさと時計時間とは違う時間の流れる空間、を生み出す術は、そこにこそあると、感じ入った次第です。

これは、内部回廊と呼ばれる、片面が黒い鉄の壁で覆われた廊下。

この背中合わせに、外部回廊と名付けられた、白い漆喰の通路があります。

色、素材、温度、内と外、閉鎖と開放。

対比、両極で中道を表しているのだと思います。

いわゆる寺院建築の形式を全く踏襲することなく、とはいえ寺とはかくあるべき、とのお手本のような、寺ではない寺。

本質とは、そういうことなんだろうと思うのです。

余談ですが、この日、たまたまおられた、鈴木大拙氏の元秘書であり、また同館の名誉館長であられる、岡村美穂子さんが、

「主体と客体に分けることなく、感覚的に全体を掴むこと。その上で、感覚でしかないもの=言語外の領域を言語化できてこその理解であり、それが心を科学するということである」。

と、大拙先生が仰ってたことだけどね、といたずら好きな少女のような目をしながら仰いました。

主客を分けるとは、自らを依怙贔屓している、ということで、感覚的に全体を掴むことができる人を芸術家肌等と呼んだりするのだと思うのですが、ここでは、右脳的要素であるイメージを、左脳を使って具体化させること、個人的なものを一般化させることの重要性が説かれているのだと思います。

上記を踏まえれば、上手く言葉やカタチにならないのは、そこに自らの理解が及んでいない、ということになりそうです。

とにもかくにも、設計された建築家・谷口吉生氏に敬服すると同時に、それを実現された金沢市に敬意を表したいと思います。

金沢へ行かれる予定のある方は、21世紀美術館もいいですが、こちらにも是非、足を運んで頂ければと思います。



SOL

2013/04/24

天上天下唯我独尊

今朝、郵便受けをチェックしたら、見知らぬ方からのハガキ。要すれば、「通りすがりに見つけたお店がとても沁みましたのでお送りさせて頂きました」という内容。・・・デジタルの時代に手書きのハガキ。こちらもすごく沁みてます。ありがとうございました。早速お返事認めなきゃね。朝から超アガる~♡

昨夜、嫁とお好み焼きを食いながら話してたこと。

ワシ、基本お店に立ってないので、最近の事情は把握してなかったのやけど、嫁いわく、誰それさんの紹介で来ました、みたいなアプローチが非常に多いと。

で、嫁にしてみれば、その誰それさんを知らないんですね。多分、その誰それさんがオススメ頂いてて、ありがたい限りなんですが、紹介元をこちらが把握できていない。お顔を見ればわかるのかもしれませんが、お名前だけではちょっとわからないという。

嫁もワシ以上にハッキリしてますので、存じ上げない旨をお伝えするそうなんですが、当然、ガッカリされてしまうんですね。

どーすりゃいい?と。

もうまたややこしいわ、と思いつつ、あーでもない、こーでもないと考えつつ寝落ちしたらしたで、イヤ~な夢を見る始末。

が、今朝起きると、前出の素敵なハガキが届いてるではありませんか!

そこで、思います。

紹介ってなんでしょうか?

ここで使われる紹介というのは、決して本来的な意味での紹介ではありません。

また厳しいことを書きますが、これは、自分を認識してもらいたいという思いを、他者よりの紹介という言葉を利用しているに過ぎない、と思うのです。

このおハガキを下さった方のように、認識をされたいと思うんであれば、自己紹介こそが、重要なのではないでしょうか?

例えば、ヴィトンが好きだとして持ち歩くのは結構なことですが、ヴィトンを持つことで妙な安心感や信用度が生まれるという錯覚で持ち歩くのは本末転倒なわけです、ということに同義。そういう人は得てして、本屋で平積みの雑誌等、商品の上にも関わらず、大事な大事なヴィトンを置きつつ立ち読みしてるもんです。お陰で何度かそのヴィトンの下にある見たくもない女性誌を立ち読みするハメになったことは言うまでもありません。神棚にでも飾っとけば~と言葉を添えることも忘れずに。

仲良くなりたいとよく耳にします、が、その時点で仲良くなんかなれない、ということに気付く必要があります。

それは所有欲なわけです。なぜ所有されなきゃならんのでしょうか。なぜその欲を相手が満たしてあげなければならないのでしょうか?

人の名を借りてのアプローチに垣間見えるのは、相手に対しての興味ではなく、自分に対しての興味でもなく、単に自分の箔に対する興味、でしかありません。

自らの利益を欲されても、何事においてもギブアンドテイク。

それが成り立たないところに縁が生じようはずもありません。

人から認められたいという思いは、他者から奪う思想です。先ずは自分で自分を認めること(=自分が自分に与えること)が、できたことによって、他者からも認められるという結果に至るのだと思います。

往々にして、自己卑下や自己憐憫(=自分が自分から奪うこと)に陥るから、それを埋めようとして、無意識に他者から奪おうとしてしまっているものだと思うのです。

自らが自らに与えることで、必然的に満たされるわけで、すなわち余裕が生じる、が故に、他者にも与えることができる。

自らが自らから奪うからこそ、枯渇し、そのために他者から満たされようとして、結果奪うことになる依存状態に陥るのだと思います。

自分が誰かより劣っているはずはない。

この世に自分は1人しかいない以上、比べることなんてできません。

元々特別なオンリー1であるなら、そもそもナンバー1なわけです。

1人しかいないのに、ナンバー2になりようがありません。

そういう意味でいえば、劣っている人がいるのではなく、劣っていると信じている自分がいるに過ぎない、ということです。

勝るとも劣るともなく、本来的な意味での唯我独尊、であればいいのだと思います。

SOL

2013/04/22

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