At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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11月

恥ずかしのスピリチュアル話

先日、30歳の頃に初めてのキラキラと書いたけど、別に光やヴィジョンが観えたわけでも、声が聴こえたわけでもなく、ただただ幸福で、訳もなく涙するような3ヶ月くらい、やったような。

それまでも、オーラとかチャクラとかお金とはエネルギーである、なんてことは耳にしてはいたけど、この頃会った横浜のユリアさんという、当時オーラの写るカメラとやらで撮影してカウンセリング、みたいな人から得たことが衝撃的で、それまで信じていた世界が単なる思い込みでしかなかったのかもしれない、そんな視点思い付きもしなかった!ということが連発で。その足でなぜか東北へ行き、結果、オーラソーマに出会い、ちょいちょい出てくる清水香名さんとも出会うことになる。その頃仙台にいた彼女、エンジェルリンクなる、天使のエネルギーと繋いでくれるというセッションをやってて、受けてみたところ、なにやらミカエルと繋がった、そうやけど、さてどうだか。で、震災後、京都に来て、いろいろありながらも馴染んでる。元々大阪出身ってのもあるのかもしれん。今となっては京都の姉のような存在で、口悪く罵り合ってたりするから不思議。

前後して、オーラソーマの資格を取るためにせっせと勉強し。大概胡散臭い。でも色の言語化、感覚の言語化、数字に与えられた意味、生まれた星の位置と性質等々、かなり内側が整理がされたのも事実。

更に前後して、マクロビオティック=玄米菜食→宇宙との調和という考え方も実践したことがある。基本玄米を主食とし、動物類は食さず、魚も少々。嗜好品関係もNG多し。その提唱者の1人でもある、久司道夫先生にも会わせて頂いたことがある。会うなり、豚食べてきたでしょ、とタバコ片手にコーヒーすすりながらの大正解。その日、良恵(EGO-WRAPPIN')と3人で対談の予定で、その前に新宿の『あえん』で無農薬野菜と大葉巻ロースカツと麦ご飯みたいな、ちょっとは気を遣ってみました的なノリも通じず。全てを見通すような眼の人やった。あの人に会って、見えないものが観えるってことは実際にあると確信したな。ちなみにその模様は、後にecocoloで2号にわたって連載になってたり。

とにかく正解が欲しくて、肯定されたくて、あわよくば悟りたかった日々。

それがどこでどうでもよくなったかというと、いよいよ親父の会社を手伝うことにしようと一大決心をして東京から地元に戻ったのに、1年も経たずしてどうにもこうにも無理で、京都へ、という過程で、どれだけの罪悪感に苛まれたかという。

もうええわと、自分で自分のことを諦めた。

どーしようもないなと。

我慢とかの次元の問題ではなく、わからないことはわからない。

親父とわかり合えたことがあるとするなら、どうにもこうにもわかり合えないということ。

それ以来、なんだかそこそこ会話がなってきたから不思議なもんやけど。

結局、親父にわかってもらいたくて、認められたくて、信じて欲しくて、褒められたかったんやなと
悟った。

叶わないこと。

わかり合えないからといって、嫌い合う必要はないわけで。

そうなると更に不思議なことに、親父と同世代やお坊さんと親しくなった。妙に話が合う、というか話が早い。いちいち説明を要しない楽さ。やけども多世代多職種あるわけで、説明しなきゃならん時も多々あるわけなので、こうして文章に認めておいたりしてる。書きたくて書くのではなく、書いているという状態。

スピリチュアルという、オカルトとなにが違うのん?と思われる世界も、それはそれで奥深い。

それが正しいのか間違っているのか、そこに正解があるのかなんて知ったことではないけど。

いずれにせよ、あるものがあるために、ないものがあるという領域というのも存在する以上、そこも意識した方がいいよというのがスピリチュアルであり宗教なんじゃないかと。

それを踏まえれば、なにかを意識した時点で、それは実在はしなくても存在はしてるのだと思う。

求めている以上、欲している以上、いいところまでは至っても、最後には至らない。

求めている裏には手放すことへの恐れがあり、欲している裏には自己不信がある。

少なからずこの地球上には自分と同じ肉体を持った人はいない、以上、感じ方は違うのは当たり前で、そこが違えば思うことも考えることも判断も違ってくるのは必然。

なのに人がどう感じどう考えどう判断するか、考えてわかるのかと思うけど。

仮に考えたようにコントロールされている人たちがいるんであれば、逆手に取られているというわけで。

とにかく何事においても、際まで踏み込まないことには、真ん中は見えない。

旅の恥はかき捨て。人生も旅やとしたら、恥はかいといていいんじゃないかと思う。

ちなみにもう一つ言えば、旅で訪れた場所を「来た時よりも美しく」、と教わったのやけど、やとしたら、人生も生まれて死ぬまでの間に、この地球や環境を美しくしようとすることが肝要で、その過程において幸せなんじゃなかろうかと、逆に汚し穢しして、とならないよう、心したい今日この頃です。

Sol

2012/11/30

気の置けない空間の作り方

言葉にならないことっていっぱいあって、にもかかわらず言葉での説明を求められることっていっぱいある。仮に言葉で説明してみたところで、理解されなけりゃ意味ないわけで。

「特殊相対性理論によると、空間が伸縮する時には、必ず時間も伸縮する。つまり、時間と空間は切っても切れない関係にあることが分かった。かくしてアインシュタインは、この宇宙の3次元空間と、1次元の時間を一体化し、これを4次元時空と呼んだのである」。

フムフム、なるほどね、って普通はならへんと思うけど、如何なもんでしょ?言葉の上では読み取れたとしても、では具体的にどういう状況、状態をそう呼ぶのか証明せよ、とか言われたらどう?

理解・不理解の差はここにあると思う。

さて、次元は違っていたとしても、自分の中で空間によって時間の感じ方が違うという感覚は常にあって、それはわりと共有できる感覚やと思うのやけど、例えば初めて南禅寺の山門くぐった後の衝撃とか、西洋の教会の荘厳さとか、祭りの最中の最高潮の興奮とか、美術館の非情さとか、がもたらす時間感覚のズレ。自分が変わったわけではないはずなのに、時がゆっくり流れるような感じ。夢中にさせるなにか。

それらに共通するものを考えてみたところ、いずれかに神的な、どこかで宗教につながっていくようなという。同時に往々にして文化財級。

そんなん絶対無理やん。

いいホテルやいい宿、サービスのいいとされる飲食店等。

サービスを必要とするってことは、空間に時間が伴ってないからだと思う。

時間がゆっくり流れて欲しくないんであるなら、忙しなくさせたければそれなりの、ということも可能なはずで。空間で時間をコントロールできるんであるとすれば、風水的なものもあながち嘘ではないのかも。あんまり知らんけど。いずれにせよ、中村外二氏のインタビュー(『京の大工棟梁と七人の職人衆』笠井一子著)を読んだらわかる。

人を迎えるにあたって、その空間にどれだけ細かく向き合ったのか、時間を費やしたのか、がズレを生む要素の1つにあると思う。

1人暮らしをしたのは、

大阪・江坂の『シャトー・金沢』6畳1R

東三国『ミングルなんとか』6畳+K

淡路『?』12畳+K

豊津『なんとか荘』昭和の共同トイレ風呂なしアパート6畳+4.5畳+K

尼崎『?』石造りのエーゲ海にありそうなアパート6畳+6畳+K

一旦実家に帰り、再びの一人暮らしは、

東京・代官山『パーフェクト・ルーム』9畳1R

元麻布『?』外人ハウス的な2DK

三茶『?』6畳+4.5畳DK

吉祥寺『?』6畳1R

代々木『?』6畳+4.5畳+6畳DK

結婚して、

吉祥寺『大家さんち2F』3LDK

あきる野『空き家の大家さんち2F』4LDK

再び地元に戻り、

加西『空き家の大家さんち平屋』5LDK

そして京都、現在へと至る。

よくもここまで引っ越しを、と我ながら思う。

面白い物件、魅力的に思う物件、とにかく住んでみたくなる。当然、必要に迫られてってのもある。

最新の建物、高層階、古いもの、一軒家、平屋、建て売り的なもの、建築家の入ってるもの、建築家の自邸等々。

それらに合わせて泊まり歩いた宿を足せば、割と味わった方なんじゃないかと思う。

光の入り方、採り入れ方、空気の流れ、動線、使われてる木の素材、木のない空間、木枠、アルミサッシ、鉄枠。

賃貸と分譲。

土地に対しての効率で考えられた部屋と、住まいたいカタチの上にある空間。

ここが客間でリビングダイニングで寝室で子供部屋と見るなりそうでしかない部屋と、季節によって居場所を変えれるような空間。

単に家賃が高い部屋が気持ちのいい部屋かと言えばそうでもないことは言うまでもないと思う。宿も然り。土地代を差し引いたとしても、価値ある高値と、有名なだけの高値がある。

樹齢300年の木で組んだ空間と軽量鉄骨に石膏ボードな空間。割とどっちも好き。

とにかく、なにがズレを生じさせるのか。

神や宗教やのに関係ないところで、空間によって時間の伸縮が体感できるのか、それをカタチにしてみたいと思ってやった結果が今のSolなわけです。

屋根裏から軒下まで、一通り目を通した。全て掃除した。

灰皿が必要となった際、灰皿を探すのか、灰皿に値するものを灰皿と見立てるのか。

雑貨屋とかハンズ辺りの灰皿コーナー行くか、プロ用の厨房屋で小さいパエリア鍋買ったりする的なか。

納得のいくもの、そこに意味があるもの。

最近出会う60代や何代目当主とかが口を揃えて、続いてきたもんには必ず意味がある、と言う。意味がなければ続かないんであれば、意味を見出すしかなく、そうなれば意味が大きく深くシンプルなほど長続きするということになる。

花をもらったから花瓶に挿れる。

普通の行為ではあるけど、どこになにでどのように活けるのか、活かすのかという意識での結果とは明らかに違うものだろうと思う。そこに気配とかが生じるのだと思う。

実際、気持ちが籠ってるわけで。

その気のない人たちによって育てられたものを、その気のない人たちが加工して、その気なく摂りいれる、ってスカスカですやんっていう。

空間の空=空っぽということではなくて、あるものがあるために、ないものがある領域。ちなみに無は、ないものもない。0には2つの意味があるということでもある。

空間である以上、その気というないとされている、少なからず目では認識できないものがある領域でなければ成立しないんだろうと思う。実際、人が住まなくなった家の朽ちる早さの半端なさはご存知の通り。

先ずは、時計の時間から外れてみること。そうすれば気配の時間が訪れると思う。

Sol

2012/11/30

教育の失敗

インドでは、人に迷惑を掛けてはいけない、ではなく、人に迷惑を掛けずになんて生きてはいけないのだから、迷惑を掛けられたら許しなさいと教えるらしい。さすがに0を発見した国は言うことが違う。これはなにも人に迷惑を掛けてもいい、ということを言っているわけではない。故意に掛けられる迷惑はやっぱり迷惑に違いないわけで。ただ良かれと思ってやった結果が迷惑でしかなかったということは往々にしてある。

日本の場合、迷惑を掛けてはいけない、と教わるため、自分は迷惑を掛けないようにしているという意識があるのだろうと思う。だから自分は迷惑を掛けてはいないと思い込み、結果、他者からの迷惑への許容が少ないのだろうと思う。

そもそも考えてみると、親しい間柄とは、お互いに掛ける迷惑を容認し合える関係、ということ。当の本人にしてみれば迷惑なんて思ってなくて、ちょっとお願い~、ちょっと甘えさせて~ってことなんやろうけど、それは親しいから許されてるだけで、関係性が変わればそんなお願い厚かましくてできません、となるわけで。

京都来て早々に鷺珠江(河井寛次郎記念館学芸員・寛次郎孫)さんにお会いさせて頂いて、即、うちの店で珠江さん所蔵の寛次郎茶碗でお茶会という無謀な企画をさせて頂いたのやけど、その際にもよそからは厚かましいと言われた。割ったらどうすんの?とか、お道具の搬出入だとか、時間的拘束だとか、確かに迷惑なんやけど、でもそんなこと以上に骨董屋や美術館でショウケース越しに眺めることしかできないものを実際に手に取り口に付け味わえる体験は貴重なはずで、そんなチャンスが可能であるなら、という思いは嘘ではないわけで。

その代わり、掛けた迷惑に対して、こちらも掛けられる迷惑にいらっしゃい!でありたいと思う。

この勘違いの根底にあるのは、「みんななかよく」という強迫観念なんだろうと思う。努力目標とするのはいいけど、現実的には無理だということをちゃんと教育すればいいのだと思う。なかよくしなければならないのにできなくて、その罪悪感から逃れたくて、となっていくのは必然だと思う。

単一民族だから言語や価値観や一般常識や基礎素養に共通認識があり、という前提があった上でその思想?が成り立ったのかもしれんけど、そこが崩壊してきてる今、成立しなくなってるんやろうと思う。

これは聞いた話なので根拠はないけど、その人がどうあっても許し好きでいてくれるという相手が2割いるそうで、逆2割はどうあがいても生理的に無理という人の存在で、残り6割はその人次第で敵にも味方にもなるんだそう。ということはどう努力しても最大で8割しか味方にできないということ。2割の人とは努力したところで仲良くはなれないという。でもこれ、感覚的に正しいと直観しますが如何でしょ?

自分に置き換えてみれば、どうにも合わんという人がいる以上、自分とどうにも合わんと思っている他者がいるのは当たり前の話やのに、往々にして他者から嫌われることを恐れ、必要もない愛想を振りまき疲れるという無駄をしている人をよく目にする。

更に言えば、自分には苦手な人がいることは許しておいて、自分を苦手な人の存在は許せないってそんな勝手な話通じないと思うけど、これが通じると思ってる人が如何に多いかってことで。

八方美人でも2割にはウザいと思われ、2割でなくてもちょっと鬱陶しく思うのに、八方美人を気取ってみたり。みんなに好かれようとして、8割=八方から嫌われる人=八方美人、なんかもね。

で、自己主張はしたいと言う。主張をすれば、同じ人はいない以上、賛も否も生じるのは当たり前の話。主張せずに八方美人でいても嫌われる時には嫌われるんであるなら、言いたいことを言えばいいと思う。初めから2割は味方なんであるなら、残り6割を味方につけるための主張をすればいい。

というようなことを、幼いうちから教えてあげれば、多少は生きやすくなるんじゃないかと思うのです。

そもそも、必ず正解は存在し、それは1つである、というところからして既に破綻してるしね、今の教育って。

Sol

2012/11/30

感覚の肯定

光や色は目で見るもの、音や振動は耳で聞くもの、となんの疑いもなく信じ切ってた20代後半まで。

それまでも器や盛り付けで味は変わるとか、また最後まで気を抜かずに音を立てずにとかお客さんの使い勝手のいいように置くとか、その辺は意識があったけど、それは祖父の教えやなんとなくそう思うという程度でしかなかったわけで。

その自分の中のなんとなくと、唯物的な世間とのギャップが大きくなってきて、どうも自分がおかしいのではないのか?と思うようになって、必死に答えを探すことになるわけです。

美しさとは何か、長らく本物と称され残ってきたものに共通することとはなにか。

そこから魯山人→白州正子→利休→禅→仏教・・・と更にいわゆるスピリチュアルな方向へハマっていくことになるわけです。

ちょっと余談ながら、小1の時に算数はいらんと思ってしまって以来、まったく勉強をしなかったのやけど、それは、リンゴ3コとミカン3コ合わせていくつ?という問題に対してアホらしいと思ったからなんやけど、それは足せんよな、という。リンゴとミカンをどないして足すのよ?子供を舐めたらアカンよねと。

ところが仏教に突っ込んでいくと、言葉で書いてあるのに、なぜそれがそうなるのか繋がらないわけです。いわゆる自身の数学的論理の欠如。

なぜ人を殺してはならないのか。これは倫理観の問題ではなく、数学的に解ける。他者の生きる権利を強制的に奪ったんであるなら、自身の生きる権利も喪失するということ。殺しておきながらやっていないとか、相手が殺されても仕方ない人間であったとか、そんなことは通じない。

人間の感情がどうであれ、プラスとマイナスでゼロというのは厳然とある事実。プラスを生じさせたければ、同時にマイナスも生じさせて初めて成立するということ。そのマイナスは見えないので往々にしてなかったことにされる=唯物的であるということ。

で、30歳くらいの時に1度目のキラキラに包まれるという経験が。最近、同じ経験を持つ人によく出会う。昨日までとなにも変わってないのに、この世界が一気に愛おしいものになる感覚。通りすがりのマンションのベランダに干してある洗濯物がどうしようもなく愛おしくて。とはいえそんな状態は長くは続かなかったけど、あの時強烈にわかったのは、「同じ人はいない」という事実。それまでもそんな当たり前のことは知ってたのやけど、わかってなかった。

同じ人がいない=諸行無常なわけで、これを解すると、比べるということができないということに気付くということ。

足の速さを比べることはできても、それは足の速さを比べてるのであって、人同士の比較ではない。

カール・ルイス(古っ)とワシとを比べて、そらカールのが足の速さでは優れてるのは言うまでもないけど、かといって人となった際に無条件に劣ってるとも思えない。少なからずインテリアや料理で彼に負ける気はしない。

自分とこの人とあの人の誰が優れているのか。そんなもんに答えはないです。仮に答えがあるということは自己卑下、唯物的であり、人と自分は同じだという前提に立っているということになるわけです。

相手が有名であるとか社会的地位があるとかの場合、相手の方が自分より優れている、と無意識で思い込んでて、だから目の前にすると萎縮してしまうということが起こるわけで。

有名であることが優れているんであれば、クーデターでも起こせば一気に有名になれるし、社会的地位が欲しければそのことに努力すればある程度は得れるとも思う、けど、そんなことになんの意味があるのか、ワシにはよくわからん。

佐治晴夫先生が仰った。

「国語の行き着く先は論理、数学の行き着く先は情緒です」。

いわゆる普通では逆を思う。

更に文理は不可分であると。

目や耳やを分けるのではなく、文理を分けるのではなく、分かれていると見えるものの統合点を見出すこと。

自身と他者は似て非なるものであるという前提であるからこそ、共通点を見出せるのであって、同じからスタートして差異しか見出せず、結果排他が起こっているというのが現在なんだろうと思うのです。

同じ人はいない。

だから自分の感覚が正しいも間違ってるもないのです。その感じ捉えたことがあなた自身であるということ。それを信じることが自分を信じるということで、即ち自信となる。

それを素直に表現した結果、超難解でなにがなんだかという映画を撮るゴダールなわけで、しかもなぜそんなに評価が高いのよ、ってことだと思うのです。

万人受け、わかりやすさを追い求めることがあってもいいとは思うけど、それはやっぱり妄想でしかないはずで、その結果、他者の評価が思うように得れなかったとしても、それは自信の欠如故なんだろうと思うのです。

*同じ人はいない、けど、人としては同じ、でもあります。

カレーを食べて辛いと感じるのは正常な人間の感覚ではあっても、どのくらい辛いと感じるのかは人それぞれということです。

Sol

2012/11/29

『Ginger Song Exhibition』 in 山代のお知らせ

葉渡莉15周年企画

Ginger Song Exhibition 

塊が奏でる音

土のアーティスト・Karcoとガラス工房qualiaの“塊”をテーマにした、

塊から感じる空気感のある作品展です。

2012.12.13(Thu)-12.24(Mon)

*19(Wed) off

@べんがらや 

石川県加賀市山代温泉通59

*葉渡莉はす向かい

10:00-17:30

塊には、静かで重く長い時間を感じます。

その空気感は、陶器やガラスが持つ自然物の魅力、力強さに似ています。

今展は陶器とガラスで、塊が発する空気を感じる空間を作ります。

Birbira Karco・qualia  林亜希子


作家在廊日

Birbira

Karco

1978 大阪生まれ

2001 京都精華大学 美術学部 立体造形学科卒業

インテリアデザイン会社勤務を経て、現在フリーとして陶器制作を中心に活動中

23(Sun),24(Mon)

qualia

林亜希子 

1973 大阪生まれ

1997-2002 大阪府大阪市 朝日硝子製作所勤務

2002-2008 大阪府和泉市 fresco勤務

2010 岐阜県美濃加茂市 qualia-glassworks設立

22(Sat),23,(Sun)24(Mon)


ClosingParty !! 

12.23(Sun)

@葉渡莉内クラブ21

21:00-

New Half Show

DJ MONDO

Live UDONBURGERZ

 

gingerの語源がサンスクリット語に由来するらしく「塊」という意味もあるらしいです。

山代の旦那文化の「旦那」もサンスクリット語のダーナに由来、施す者という意味だそうです。

偶然の一致、というか無理矢理か。

今年最後の締めくくりとなる山代でのイベントです。

蟹と温泉とニューハーフとドラァグクイーン、須田菁華に北大路魯山人。

是非お誘い合わせの上、お出掛け下さい。

Sol

2012/11/28

Zen cafe@Sol

12月のお知らせです。

12/13(Thu)

10:00-11:30

2,000yen(ランチ付)


普段の生活の中、背中を丸め意識もしない浅い呼吸をして、なんだかスッキリしない毎日を送っていませんか?

慌ただしい生活の中で自分が押し流されているようで心が苦しくありませんか?

私たちの日常は、携帯電話・パソコン・テレビなど、いつもなにかの媒体に繋がって、常に心が揺れ動き頭を使っています。

1人になれる場所を持ちながら1人になり切ることができません。

それらと離れて、背筋を伸ばし、ゆったりと呼吸をし、静かに坐る時間、心に気持ちの良い時間を多くの人に提供したいと考えています。

一度、和尚さんによる禅のお話とイスでできる坐禅をしてみませんか?

羽賀浩規(花園禅塾・塾頭 臨済宗妙心寺派蓮華寺住職)


お申し込みはコチラ

reservation@pushalley-oilalley.com

075-708-8750


Sol

2012/11/28

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