At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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5月

超~同意!

今朝、TwitterのTLを眺めてたら、土井善晴氏 (@doiyoshiharu)が以下を。

美しいということが人が人らしくあること。今の日本では美しさの反対にあるものが経済となることが悲しい。美しいというだけで価値があるのだから。人が豊かになるのだから。美しさに普遍的な価値を与えなえれば、美しさはなくなるんじゃないのか。それは国の力を誠実に使ってほしい。

高価な美しいものが一つあるよりも、ふつうの暮らしにあるもの全部が美しいほうがずっと気持ちがいい。それは自然。時間。人。

本当にそう思う。物質的なものと精神的なものとがバランスするって不可能なのかなぁ。
迷ってはダメ。自分に言い聞かす。
土井先生と話してみたい。

2010/05/28

すごいぞ青年!

毎月ではないのやけど、なんか思い付いたら19日に京都のとある場所で密かに催される19の会。ひょんなことで参加させてもらうようになって昨夜で3度目、棟方志功のお孫さんの石井頼子さんによる、棟方話な夜。そのとある場所には棟方作品がズラリ。


床の間には直筆による「愛染」の軸。「愛しい」で「かなしい」と読み、切ない気持ちを表すそうで、その感情を棟方は好きだったらしい。おこがましいけどワシも好き。きっとみんなも好きだと思うけど、そーでもない?1943年くらいの作品ではないか?とのこと。
で、この日は河井寛次郎のお孫さんの鷺珠江さんもお越しで、棟方と寛次郎の出会いの場面再現。ちなみに鷺さんは現在、河井寛次郎美術館におられます。さらに余談、寛次郎の言葉。
「新しからうが古からうが、西で出来たものでも東で出来たものでも、そんな事はどうでもよい。すきなものの中には必ず私はゐる」
この言葉には心動かされずにいられない。

棟方は寛次郎に全面肯定されたようで、河井家に招きを受け、40日間逗留することになるらしいのやけど、寛次郎が棟方を連れて帰るとの連絡を電報にて「クマノコツレテカエル」と打ったらしく、一家騒然、一方東京から京都への道中、寛次郎が棟方に対して何度も、「すごいぞ!青年」と言ったらしく、河井家に着くなり棟方、「すごいぞ青年、ずごいぞ青年」と口ずさみながら練り歩いたらしい。それにも一家唖然だったらしいけど、棟方がどれほどうれしかったのかがよくわかる。
当時も今も文化では食えないという常識の中、すごいぞ青年と諸手を上げて肯定してもらえる経験は何物にも代え難くうれしかったに違いない。
きっとそれは、
「偉大な精神を持つ人は、常に、凡庸な考え方を持つ人に激しい反発を受けてきた。陳腐な先入観に盲目的に従うことを拒否し、勇気を持って正直に自分の意見を表明する人のことを、凡人は理解できない。by アインシュタイン」
反発に対し、信念を持ってしてもやはり屈しそうになったんじゃないかと想像できる。そんな中、やっぱり自分は間違ってなかった!という思いだったんじゃないかと思う。

話は戻って、棟方が河井家で過ごした日々は、最初度肝を抜かれた家人達が今度は逆に恐縮するぐらい礼儀正しかったそうで、棟方が寛次郎から受けた影響は測り知れなかったよう。

この夜は河井家ゆかりの、棟方も愛した、『濱喜久』のお弁当。その後、棟方の茶碗でお薄。


釘絵。


染付。

釘絵はお手の物だったらしいけど、絵付けは難しかったらしく、寛次郎や浜田庄司の上手さに舌を巻いてたとのこと。
棟方は洋菓子、特にニューヨークチーズケーキとお抹茶を合わせるのが好きだったらしく、この夜のお菓子は進々堂のニューヨークチーズケーキで。その話を聞いた、この日お越しの鈴木大拙元秘書の岡村美穂子さんが、「じゃぁ棟方は半分ユダヤ人ね」って仰って、え?となったのやけど、ニューヨークチーズケーキはユダヤ人の産物とのこと。へーーーー知りませんでした・・・。
で、岡村先生。また素敵な方でした。
そもそも民藝運動は禅の思想が底辺にあり、寛次郎にも棟方にも影響を与えた鈴木大拙。その孫、元秘書が一同に会する場の不思議は言葉にできない。


谷崎本の装丁。かわいすぎる。棟方は優に400冊は超える装丁をしたらしい。
また棟方が愛した、上口愚朗、またの名を雲谷斎(ウンコクサイ)作のジャケットがまたすばらしくかわいくて。ギャルソン、ネメス(懐かしっ)あたりにありそうな、素材はツイードやねんけど、左右が別々、ボタンは4つ付いてるのに、ボタンホールは1つで、ポケットの位置もパターンも違う。でもイヤらしくなくて。欲しい。

民藝とはなにか、そんなことは語れないけど、もっとずっと浅いところで、現在、美の欠如をすごく思う。
美しさをも経費削減の範疇に含む考え方が横行する。それは地方に行けば更に顕著。東北も関西も九州も初めて訪れた地のはずなのに、なんだか見慣れた景色で一体自分がどこにいるのかわからなくなる。ペラッペラの建物が幅をきかし、なんだかよくわからないものでできあがった食べ物達。
コストを下げたことでよくわからない病気や、それによる死因が増える。それってトータルで見たらコストは確実に上がってると思うのやけど、間違ってますか?
安さにひかれて買った食材を口にすることで病気になって薬を飲むことになったとしたら、さて?
その因果関係が絶対ではないけど、かといって無関係だとも言い切れまい。

「基準を学問という。基準のない人間は、人から信用されない。美でもない。美でもなければ人から敬愛されない。by 司馬遼太郎」
親が子を殺し、子が親を殺す世の中が真っ当なはずがない。美の欠如が敬愛する心の欠落と繋がっているのではないのか。
自らのうちに基準を持つこと、その基準は学問により培われていくということではないのか。ではなにが学問か。それは文化や歴史、また本物や一流に触れることではないのか。

「幸福の要は、ありのままの自分でいることを厭わぬこと。by Desiderius Erasmus」
その人がその人であること以上に美しいものはない、と思う。
あるがままであることの美しさを否定しようがない。
夏は暑いからこそ夏であり、夜は暗いからこそ夜であり、時間を経て変化していくことが自然の摂理であり、死ぬからこそ生きているのであり、でもそれらをどうも嫌うのが人間。
物質的豊かさを否定はしない。でも今、物質的にも豊かかどうか疑問。
そして精神的にはこの上なく貧しいと思う。
目に見えるものだけが世界ではない。
なんだか人間には創れないものの価値を軽んじ過ぎたのではないのか、と思う。
寛次郎や棟方がそうであったように、自らの基準を見出し、それを貫くことが幸福であり、美しさである、そのような世の中であって欲しい。
「すごいぞ青年!」と声を掛けれるような生き方をしたいと改めて思わせてもらった夜でした。

さて現在京都では、6/13(Sun)まで、楽町楽家というイベントが行われてます。京都に行かれる際は是非お立寄を。

*グレーの文字はリンクが貼ってあります。クリック!
*お酒の席での記憶を頼りに書き起こしたことなので、誤った表記があるかもしれませんが、その際はご一報頂けましたら幸いです。

2010/05/20

正直なところ

「民主党の山岡賢次国対委員長が6日、党本部で開かれた『女性議員ネットワーク会議』で、米軍普天間飛行場移設問題を『直接国民の生活に影響していない』と発言し、沖縄県の民主党市議から抗議を受けて謝罪する一幕があった。山岡氏は、普天間問題に絡んで審議拒否を示唆する自民党を批判する中で発言。『地方に行くと、普天間は何か雲の上のお話で、子ども手当は自分たちの生活の話という思いもある』とも述べた。これに対し、会場にいた伊敷郁子糸満市議が『私たちにとって生活を破壊される大きな問題。今の言い方は県民を冒涜(ぼうとく)している』と反発した。山岡氏は『法案ではないことで(自民党が)審議拒否をするのはおかしいという意味で申し上げた。誤解を与えたなら申し訳ない』と発言を即座に撤回し、謝罪した。」
今朝の東京新聞より。
これ読んでちょっとハッとした。
確かに「直接国民の生活に影響しない」ってのはおかしい。沖縄県民や徳之島の住民は国民ではないのか、という話になる。でも「地方に行くと、普天間は何か雲の上のお話で」ってのは、実のところそうかもしれない。
政治家として不用意な発言だったかもしれないし、当事者にとっちゃ聞き捨てならないことには違いないと思うけど、山岡氏だけではなく、「雲の上のお話で」終わらせている地方も抗議されるべきじゃないのか、と思った。その抗議される対象に自分も含まれる。

そんな中、
「沖縄県民として、総理を批判する気には私はなれない。自民政権では沖縄の苦しみは覆い隠され、顧みられることなく全て政府が決めてきた。初めて、沖縄の声に耳を傾けたのが現政権。沖縄の現状も知らずに簡単に嘘つき呼ばわりしないでいただきたい。」
twitter上でこんな発言が。
もちろん、これが沖縄県民の総意とは限らないけど、なるほど、と思う。

沖縄に未訪で、友人知人もなく、基地移設にも関係ない地域で日常を過ごしている人間にとって、実のところなにがなんだかよくわからないってのが正直なところ。でもそれはどっちでもいいとか、どーでもいいとか、そうではなくって、どうすればいいのかがよくわかっていないって意味。きっと本質的な理解には、歴史を学び直す必要がある気がする。

そもそも、基地が必要なのか?からもう一度議論し直されるべきで、必要だとの判断であるならどこかになきゃならないわけで、そうなった場合、誰かがどこかが負担しなければならなくなるわけで。それが沖縄にあったからこれからも沖縄でいいんじゃないのってのは甘え過ぎよね。
これ、次元が違うと怒られるかもしれんけど、葬儀場とか斎場とかの建設反対ってことに似てる気がする。人は必ず死ぬ。その後葬儀して火葬する、その風習自体が変わるのならわからんでもないけど、現段階では必要なのに、でも誰もそれが自分の近所にあることを望まない。

首相に難ありってのは否定はしないけど、普天間に対しての発言の2転3転を批判するのなら、どうあるべきかを明示してからじゃないの?と思う。
少なからず自分には無理。
結局、どうあるべきか、ではなく、どうなるの?とこの問題を傍観してしまってる。

そしてこんなレポートが。「米軍に普天間基地の代替施設は必要ない!日本は結束して無条件の閉鎖を求めよ」

日々の生活って忙しい。稼ぐ必要があって、食事する必要があって、寝る必要があって、人付き合いも、ストレス発散も。そんな目先のことに追われてるうちに、この国は膨大な借金を抱えてる。
塩素入りの水を飲み、化学調味料や人工添加物の入った食物を食べ、免疫力が落ちて病に罹り、副作用のある薬を飲む。そのお金はどこに流れているのか。

昨日、「どっちでもいいってことってあるよね?」って聞かれた。確かにある。でもそこで注意しないといけないのは、どっちでもいいっていうのは、自分では決めないと決めてるってことだということ。具体的に言えば、「ご飯なに食べる?」となった時に、「なんでもいいよ」って返ってきた、「じゃトンカツは?」と言えば、「それはイヤ」みたいなこと。これっておかしい。なんでもよくないやんけっ。
何度も書いたけど、マザー・テレサの「愛の反対は憎しみではなく、無関心」って言葉、よくよく噛み砕いてみると、憎しみも関心であるってことで、その憎しみを抱く対象にも愛があるということになると思ってる。例えば寂しいのが嫌だという思い。嫌だと思ったところで寂しさがなくなるわけじゃない以上、嫌だと思うエネルギーほど無駄なものはない。感情的に嫌だと思うのは当然のことで、でもそれとは別のところで寂しさは抱えなければならないわけで、それなら寂しさを感じた時点で、即嫌だと思うところにちょっと猶予をもって、今寂しさを感じてるんだと感じればいいんだと思う。それが自分を客観的に観るってことなんじゃないかと思う。
そういう意味で言えば、どうでもいい、どっちでもいい、なんでもいいっていうのが、無関心ってことだと思う。思考停止って言ってもいいのかもしれないけど。
トンカツはイヤなのに、なんでもいいって言えることは、自分に対して無関心=自分に対しての愛の欠如ってことになる。だからこそ、他者から自分に向けて関心を持ってもらいたい=愛を求めることになる。
自分にはなにが似合うか、体は今なにを欲しているのか、そんな自分の声を聴きながら実現させていってる人と、なんでもいいかってテキトーに過ごす人とどっちが魅力的かって話かなと思う。前者は自分に対して愛情豊かなわけで、そんな人だからこそ魅力的に映るし、愛されるんだと思う。もちろんそれをウザいとか言いながら嫉妬する人も世の中にはいるけど。でもそれは嫉妬させるあの人に非があるってことのようでいて、実は嫉妬してるのは自分でしかないんやけど。

関心はある・なしではなく、持つ・待たないなんじゃないかと思う。
関心がないのは自分。関心がないから関心がないんですってなんだかおかしな話で、関心を持つためにはきっと努力が必要。その努力を放棄して無関心で過ごしていたのに、いざ自分に不利益が生じるとなった時初めて不平を言うことはやっぱりおかしい。
愛国心と言えばナショナリズムみたいななんだか怪しい方向になるけど、その内容は、この国を愛するっていうことではなくって、自分さえよければっていう考えより、人を喜ばせようとするその有り様、それはこの国だけではないけど、この国が大切にしてきた価値で、それをこれからも踏襲しませんかっていう意味として捉えれば辻褄が合う気がしてる。

普天間の問題から、まぁ今に始まったことじゃないけど、安全保障の問題とか、憲法の問題とか、歴史認識の問題とかがより浮き彫りになったと思う。
自信がないなんて卑屈なことを口にする前に、自分の頭と目と耳で歴史や文化を学び直すことが大事な気がする。
その上で、どうあるべきか考えてみたいと思う。

2010/05/07

それが言いたい

「日本人は『どこか自分の外側に答がある』と勘違いしている。そのため、何か困ったことに突き当たると、最初から『この問題の答はどこにあるのか、何なのか』と考えてしまう。自分が『解決すべき問題はそもそも何か』を考えずに、目先の問題への答えばかりを見つけようとする。」(大前研一BOTより)。
すごく同意。

昨日、メール。
基本男好きなのやけど、なんだか女を好きになったみたいなので結婚してもいいものか?みたいな。
これ、なにが正解?
したかったらすればいいやん。
2人で時間過ごしてみて、許せない部分がなんなのか、譲れない部分がどこなのか、見極めてすり合わせていくことくらいしかできなくない?

そもそも結婚の定義ってなに?
正しい結婚の形ってあんの?
人の数だけ結婚の形があるんじゃないの?

誰がなんと言おうが俺はこうする、それが依存してないということなんじゃないのかと思う。
自分の人生。自分で決める。
決めて間違いだったら軌道修正すればいい。
自分で決めるということが自由ということ。
自らが由(よ)しとする=自由=自分で決める。
決めた答えに自信がないのなら、その答えを導き出した自分を信じるしかない。

正しいか間違いかを考えて答えは出る?
それを人に聞けば聞くほど迷うことになると思うし。
要は自分がそれをしたいかしたくないか。
それに対して周りはいろいろと判断して意見を言うかもしれんけど、それは人の判断であって人の意見、自分とは関係のない話。

2010/05/03