At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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4月

個と全体

BRUTUS発売されたので、以前の『お預け』の続き。

何度か書いたし、近しい人からはもういいってって言われるけど、やっぱり「カレーは辛い?」問題。ホンマに日々聞かれた。うんざりするくらい問われた。
「カレーって辛いですか?」
これは、
1.「カレーという食べ物は辛いものでしょうか?」
2.「こちらのカレーは、世間一般と比べて辛いのでしょうか?」
3.「こちらのカレーは、ワタシにとって辛く感じるものでしょうか?」
と読み取れる。
1に対しては、辛いです。以上。
2に対して。これ、答えれる人っていてるのかなぁ。世間一般?マスってこと?
3に対して。知らんって。アナタの舌とワシの舌は違います。

ここから少し鬱陶しいので、読み飛ばしてもらって結構です。
今日本でカレーを知らない人はいてないでしょ。カレーは辛いのです。カレーの定義はなんやねんって話。また日本のそれとインドのそれは少々違うみたいでその辺がややこしかったりするけど、カレーは辛いのです。それがどのように、どのくらい辛いのか、はまた別の話になってくる。
そこで世間一般と比べて辛いか否か、ってことになる。それって当時のスタッフに、万人受けするものを考える、と言われてそんな無茶を言うなとたしなめたことがあるのやけど、どういうことかといえば、万人って全てのってことでしょ。ロシア人、インド人、日本人、まぁどこでもいいけど、全人類が好むもの・・・存在するか否かは別にして、それって計測したことあんのかよ?って話なんよね。ワシは世間一般の辛さの基準が存在してるとは思ってない。それに沿ってうちのカレーはどこに位置するのかって聞かれても、申し訳ない、わからないとしか言えない。そこまで厳密なことではなく、己の経験則からどこに位置するかを聞かせて欲しい、その気持ちもよくわかるけど、ワシ、そないにカレーの食べ歩きしてないから、それを基準にされる違和感がやっぱりある。
さらに、ワタシにとって辛いでしょうか?なんてもうなにがなんだか。知りませんし、知れませんし。転校生でもあるまいし、入れ替われたなら感じることができるかもしれんけど、そんな無茶言われても、ねぇ。

世間一般=マスと捉えたとして、多数派、普通、そんなことになるのかもしれんけど、それがなんなのか、よくわからんのです。それは自分がマイノリティとして過ごした時間が長かったからってのが大いに影響してると思ってる。普通扱いされてない部分を持って奇異の目を向けられた経験ある者にとって、自分の中の普通は考えるまでもないことやけど、世間一般、普通ってことへの理解は難易度が高い。でも実は、それって皆が経験したことじゃないの?奇異の目を向けられたかどうかは別にしても、誰もマイノリティの部分は持ってるでしょ。それがコンプレックスやったりすると思うけど。
そもそも多数派なんてものは前提に位置しない。平均点って結果でしか計れないというか、結果でしかないのに、なぜそれがあたかも前提であるかのように扱われるのか、そこを言いたいのやけど、その話が通じなくて、頭抱えた。
普通の辛さってなに?

また別に、自分が思っている、耐えられる以上の辛さで、残すはめになったら損した気分、だから確実にオッケーであるなら食べてみる、そんな思いも読み取れる。てか本意はそこにある、と思ってる。要は失敗したくないってこと。それもわかるけど、失敗ってなによ?って思う。
別の例えでいえば、生麩饅頭の件。
「生麩ってなんですか?」
よー聞かれた。
これはわかりやすく、食べたことありませんってこと。なので一応説明はします。
・焼き麩の生
・小麦のグルテン
・独特の食感
質問に対しての答としては間違ってはないと思うけど、求められてる答えにはなってない。だって、それでイメージつく?つくはずない。未経験の事柄へは説明も説明ではなくなる。百聞は一見に如かず。それってtwitterってなに?って質問と似てて、言葉は尽くすけど、やっぱやらんとわからんよねってのと一緒で、とにかく食べてみたら?って思う。
この際、好き嫌いは横に置いて、自分に経験をさせることができるかどうかが優位じゃないの?って思う。それはワシの価値観でしかないのかもしれんけど。食べてみて好きじゃなくても、それは自分が好きではないだけで、否定に値することではないし、そもそも食べてみたってその経験が貴重。ちなみにワシの場合、一度食べて好きじゃなかっても、よそには美味しい生麩はないものか、探す。
失敗とは思い通りにことが運ばなかったことを指すんじゃなくって、やらなかったことを指すのやと思ってる。
「君は、自分の墓に、『リスクを怖がって何の失敗もせずに、退屈な一生をおくった惨めな男ここに眠る』と書かれたいのか?」from twitter hondakenbotより引用。

この世に同じものは存在しない。大量生産されたものとて、同じものではない。ましてや同じ人間はいない。その前提が通じないことが多い。
「同じ」とは概念でしか存在し得ない。
「同じ」からスタートするから混乱が生じる。
「違い」からスタートするからこそ、共感や理解に至るのだと思う。
「カレーは辛いか?」
その問い掛けをする人の多くは、他者と自分は同じである、という前提に立ってるという結論。もちろん本人は、そんな意識もないと思うけど、無意識では確実にそう思ってる。その無意識を意識することが必要。
だから人と自分を比べられるなんて錯覚が生じるし、実際比べて優劣つけて一喜一憂してしまうという愚行を犯すことになる。
そのくせ、あの人は特別、とこっちとあっちは分けられると思ってたりもして。

世界とはなにか。
目の見える人と見えない人、生麩を食べたことがある人とない人、インターネットが日常にある人と拒絶して未経験の人、海外経験の有無、それぞれでの世界は違う。世界は1つ、確かにそう。でもね、パラレルでもあるのです。
だから理解されることが当然なのではなく、理解してもらうことが重要で、理解しようとすることが最重要になる。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です。」(マザー・テレサ)ということは、愛とは関心を持つこと。憎しみに憎しみで返すのではなく、なぜ憎しみを持つのか、関心を持って理解しようとすることが、愛なんでしょ、きっと。
地球は1つやけど、そこにいてる人達はいろいろで、なんのメディアか、どのクライアントかで見てる世界が違うということが加速度的に進んでる気がする。なにが正しいのかなんてわからんからこそ、自分はなにを正しいとするのか、できるだけ真実に近い部分で持ってたいと思う。なにを辛いと感じるのか、ちゃんと自分の感覚なり癖を認識してたいと思う。
人がなにを感じてるのかを感じ取る能力も大事やけど、自分がなにを感じてるのかが疎かになってはバランスが悪いと思う。

木だけではなく、森だけではなく、木を見て森を見る。
また森っていうのがなんだか漠然としてて微妙な感じやけど。

2010/04/30

好きなノリ

過去の画像や好きな画像をTumblrにアップ。ヒマあったら覗いてみて。
随時アップしていく予定。

2010/04/24

ちょっとした事件

『なう』、言うてはりますか?
『なう』。Twitter用語。恥ずかしくないの?とやる前は思ってたけど、ディズニーランドに入ったら最後、ミッキーの耳つけてもうたというのと一緒、え?この人が?と思う人も『なう』、言うてはるので、そういうものみたいです。
ちなみにこの『なう』は『ナウい』とは全く違います。余談ついでに『ナウい』の場合、
「今日の私はナウいですか?」
というような使い方をすると、寂しい人及びナルシストだと思われても仕方ない、なので1人称には不向き。
「キミ、ナウいね!」
てな感じで2、3人称に使うと、そもそもナウい=なにをもって新しい言うてんねんと曖昧なヤツと思われてしまうので、よろしくない。
以上の理由で廃っていったと思われます。

さて昨夜のTwitter上でのこと。
オヤジとオカンが会社の中でどーでもいい話をしてて、2人とも老いたな、と思いつつ、でもこの2人の子かと思うとしみじみ、的なことをつぶやいたのやのやけど、そしたら、Floorの時のお客さんから、突然のリプライ。
「あなたの父はすばらしいと思います。ということはあなたもすばらしいということではないでしょうか。アイコンについては、すばらしいとしかいいようが ありません。」
ワシが使ってるアイコンは、このお客さんの息子さんが描いてくれたもの。
「このアイコンを書いた人間は、現在小二になりました。私の『肉と魚、どっちが好き?』という質問に対して、『魚も肉でしょ?』と答えるような人間になりました。どう?」
どうってどうよ?
「今のうちからうちでお預かりさせて頂きます」
と返したのやけど、そしたら、
「このつぶやきを見せたら、『ふ~ん』と言っています。風呂に入るらしく下半身むき出しです。よろしくお願いします。」
下半身むき出しでお願いされたらあらゆる可能性はオープンってことでいいんでしょうーか。子供ってズルい。
で、このやり取りは楽しかったのやけど、なにを勘違いされたのか、
「このつぶやきを見せたら、『ふ~ん』と言っています。風呂に入るらしく下半身むき出しです。よろしくお願いします。」
の部分だけ一人歩き。ここだけ読むとなんか不倫臭い。なんだか卑猥。

世の中にはオモロい人、多いね。
140文字という文字制限のせいで、説明が上手くなるような気がする。昔mixiでみんながこぞって日記描いてた頃、全体的に文章力上がったよねって話をした覚えがあるけど、今度は更に要約する力が上がるのかもしれん。
そう思えば俳句ってすごい。5.7.5に季語入れてってどんだけMやねん。

では今から大阪に行ってまいります。

2010/04/21

お預け

twitterはやる気がない、blogをアップしろ、と言われたので、少々。かといってなに書こ・・・。
twitterやりだしたことで、その時浮かんだことをその場でつぶやく、するともうお腹いっぱい。その気分からいくと、Blogを書くには気合いを必要としてたことに気付いた。
blogってホンマ、誰が読んでるか皆目検討もつかず、ってほどのhit数はないけど、なんやろ、雑誌で書く方がまだ気分が楽やったりすんのよね。mixiでのマイミクとか、twitterでのfollowersとか、雑誌は有料であるとか、そこでフィルター、バイアスがかかってる気楽さがあるのやけど、blogってそうじゃない。まぁそうじゃないと思ってるだけかもしれんけど。
うーん、そんだけちゃうな。実際、ここで書いたことが少し面倒臭いことになって、控えてたってのもある。帰って来るまでは、自分1人の責任において言論の自由を謳歌できてたわけやけど、今となっては個人であると同時に、会社組織の一員と見なされる部分が出てきたってこと。だからそのへんの下りを含むものは非公開にした。
まぁそんなことはどーでもいいか。
いやいや、どーでもよくはない。結局、アンチ・マスってことなんやろな、ワシ。なんでアンチ・マスなのか。ちゅうかマスってなんやねん?ってとこから話を始めてみる。

と、以下超~気合い入れて書いたのやけど、書き終わった頃、ブルータスの原稿が到着。内容モロ被り・・・。なので、この先は5/1以降にアップしますー。
スンマセン、中途半端で。

2010/04/09

追加しました

右下にtwitterの一部を貼付け。
だからどーなのって話やけども。
飽き症なもので、新しい物好きなもので、いつまで続くのかって感じですけども。

こないだ、せっかちでって言うと、エネルギーが有り余ってるのよ、と返された。
どこに行こうとしてるのやろ、ワシ。

2010/04/07

居住空間学

今年で3回目?4回目らしい、ブルータスのタイトル名の特集。居住空間を学する、ってのがいい。
で、うちの家、学しときました。4P。
5/1発売。

2010/04/06