ただのダダ漏れ
Twitterとfbのリンクが切れたみたい(放置)で、以来あっち見なくなった。ちょっとネガティブな要素強い気するし。ルンルンも多々あるけど。こっちはほぼリアルな友人知人、最低でも顔は知っている、はずってやっぱり安心感あるよな。安心感?リアクションがわかりやすいし、会話が成り立つ気持ち良さ!それ。類は友を呼ぶ?同じ穴のムジナ?井の中の蛙?
そう思えばブログってまた別の枠組み。そもそもコメントがつかないしね。こないだ若い女子からブログ読んでますと言われたのやけど、その先は聞かなかった。どーでもいい。書き切った感が射精どころの騒ぎじゃない。坐禅ってきっとそれがあるから続けられそうな。かといってリアルな射精が必要なくなるのかと言えば、また別の話ってところが厄介なわけで。そら親鸞も妻帯するし、一休も無茶苦茶するわな。盤珪もイってる。
で、そのお母さんが来てくれはって、叱られるのかと思ったら、タロットやって下さいとのことだったので、またしでかしてしまいましたが、そこは改める気もありません。女子はハンカチ必須。お母さんには不要やったけど。
全くTVは見てないし。だから余計に世間とズレるんやろな。そこまで言って委員会だけは、Dailymotionで見てますが。最近は宮崎哲弥のあのシャベリが鼻につくと思ってたのが、彼の仏教・・・(忘れた)って本を読んで以来、つい耳を傾けてたりして、ワシ単純と思ったり。
でもTV見なくなって、ホンマに本読むようになった。今は書く時なので読むヒマがない。また枯れたら読む。次は縄文時代を攻める。早く読みたくて仕方ないけど、これまでのこと整理しとかないことには収拾つかなくなる。人それぞれやろうけど、ワシは書くことで整理がつく。感じたこと、考えたこと、を言葉に置き換えて整理する。実際、頭の中でグリッドができていく、と思ってる。より細かに料理で組み上げていく人もあるやろうし、奏でることで然り。
良恵とかはちゃめちゃやけど、ズレズレで、でもテコでも動かない信念がある。画伯然り、羽賀和尚然り。芯がある人は見てて安心する。千早振る。神に掛かる枕詞。対立概念として、荒振る。駒が順調に回転している時の芯は位置が変わることがあったにせよブレてない。対して、終わりかけの駒の芯は見てて目が回る。
羽賀さんは子供のお付き合いではTVを見はるかもしれんけど、良恵も画伯も見てない。こないだ画伯が東方シンキ(字がわからん)のコンサートに行って感動したと言うてはったんやけど、全く見てるとこが違うかった。どこに感動したのかはワシにはまだ言葉にはできん。味わったことがないから。
ワシにとって面白い人って、その人が見た世界をより細かい描写で伝えてくれる人。ヘーの連発で、めっちゃわかるその気持ち、とか、そんな選択肢気付いてなかった!ってこととか。仲畑さんの『この骨董が、アナタです。』は、成人男性が読めば穴があったら入りたくなること請け合います。よくぞまぁここまで自分の失敗を開けっ広げに書けるなぁと人間の大きさを思う。画伯も仲畑は男らしい、と何度も言う。画伯の言う男らしさとは、大勝負ができること。人生はギャンブルではないけど、かといって、すべきことをやっていれば自ずから大きな決断に迫られること必至。いくらシュミレートしてみても、最後は寝て待つしかない。決断が苦手なのではない。決断にビビらなくなるのも慣れでしかない。だったら、苦労は買ってでもしろってことは正しいことになる。大きな決断に迫られるということは同時にある意味数字も大きくなるってことで。
前出の盤珪の問答。
ある僧が短気な性格で悩んでいた。生まれつきの短気で、意見されても直らないという。そこで盤珪に相談に行く。
禅師いわく、そなたはおもしろいものに生まれついたの。今もここに短気がござるか?あらば只今ここへお出しゃれ。直してしんじょうわいの。
僧いわく、ただ今はござりませぬ。なにとぞ致しました時には、ひょっと短気が出まする。
禅師いわく、然らば短気は生まれつきではござらぬ。何とぞしたときの縁によって、ひょっとそなたが出かすわいの。(中略)人々みな親の生み付けてたもったは、仏心ひとつで余のものはひとつも生み附けはしませぬわいの。
と答えたという。
玉のような子についた傷が、急かされたがために短気、だったり、成功を求められ過ぎたために失敗できないプレッシャー、だったりしてるってことで。子は親に似る。
親父に似て短気でね、なんて暢気なこと言うてる場合じゃないってことね。
親父もオジイに散々急かされたらしい。ある意味ゆったりした時間を持った人やのに、どっかでものすごくせっかち。しかもそのせっかちな時の機嫌の悪さ。これを嫁に言えば、アンタのことやんって言われるやろな。最近自覚が出来てきた。
オカマのくせに男らしいってこれ如何に?って感じやけど、ちょいちょい男らしいと言われる。割と褒め言葉と受け止めてる。画伯には言われてないから、その人たちの言う男らしいとはなにかわからんけど。ちなみに、三島由紀夫と石原慎太郎の対談の中でお互いが思う男らしさが一致したそうなのやけど、自己犠牲。時代を感じるな。
こないだとり安にスープ貰いに行ったら、スープだけはやってまへんってピシャリ。キャインってなったわ。そらそうですわね、わざわざ「とり」と看板に掲げてはるんやもん、中味買わずにどーすんねんって。そらそっちが正しい。言うまでもないやろ、って話で。恐れ入る。でもこっちは小銭しか持ってへん、けど、でも手羽先100gとも言われへん・・・小雨振る中、往復しましたわ。
京都はホンマに筋が通った人が健在。そういう人は姿勢がいい。亜里子のママの着物姿にはハッとさせられる。姿勢よくあろうとしたのではなく、だって襟汚れるやん、との結果がそれ。健在。女性性とはかくあるべし、と思ったけどな。
着物着るのも慣れやろな。
苦手なんて所詮思い込み、というか過去にそうあるべきだと歪められたことでついた傷がうずくから目を背けたくなってるだけで、そこを見なけりゃ傷は癒えず玉には戻らないでしょって話。
傷を癒すために痛みは感じるのであって、痛みを感じたくないと言いながら傷口を拡げるようなことはやめた方がいいってことなのかもね。
2012/04/17