At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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chezの独り言

ただのダダ漏れ

Twitterとfbのリンクが切れたみたい(放置)で、以来あっち見なくなった。ちょっとネガティブな要素強い気するし。ルンルンも多々あるけど。こっちはほぼリアルな友人知人、最低でも顔は知っている、はずってやっぱり安心感あるよな。安心感?リアクションがわかりやすいし、会話が成り立つ気持ち良さ!それ。類は友を呼ぶ?同じ穴のムジナ?井の中の蛙?

そう思えばブログってまた別の枠組み。そもそもコメントがつかないしね。こないだ若い女子からブログ読んでますと言われたのやけど、その先は聞かなかった。どーでもいい。書き切った感が射精どころの騒ぎじゃない。坐禅ってきっとそれがあるから続けられそうな。かといってリアルな射精が必要なくなるのかと言えば、また別の話ってところが厄介なわけで。そら親鸞も妻帯するし、一休も無茶苦茶するわな。盤珪もイってる。

で、そのお母さんが来てくれはって、叱られるのかと思ったら、タロットやって下さいとのことだったので、またしでかしてしまいましたが、そこは改める気もありません。女子はハンカチ必須。お母さんには不要やったけど。

全くTVは見てないし。だから余計に世間とズレるんやろな。そこまで言って委員会だけは、Dailymotionで見てますが。最近は宮崎哲弥のあのシャベリが鼻につくと思ってたのが、彼の仏教・・・(忘れた)って本を読んで以来、つい耳を傾けてたりして、ワシ単純と思ったり。

でもTV見なくなって、ホンマに本読むようになった。今は書く時なので読むヒマがない。また枯れたら読む。次は縄文時代を攻める。早く読みたくて仕方ないけど、これまでのこと整理しとかないことには収拾つかなくなる。人それぞれやろうけど、ワシは書くことで整理がつく。感じたこと、考えたこと、を言葉に置き換えて整理する。実際、頭の中でグリッドができていく、と思ってる。より細かに料理で組み上げていく人もあるやろうし、奏でることで然り。

良恵とかはちゃめちゃやけど、ズレズレで、でもテコでも動かない信念がある。画伯然り、羽賀和尚然り。芯がある人は見てて安心する。千早振る。神に掛かる枕詞。対立概念として、荒振る。駒が順調に回転している時の芯は位置が変わることがあったにせよブレてない。対して、終わりかけの駒の芯は見てて目が回る。

羽賀さんは子供のお付き合いではTVを見はるかもしれんけど、良恵も画伯も見てない。こないだ画伯が東方シンキ(字がわからん)のコンサートに行って感動したと言うてはったんやけど、全く見てるとこが違うかった。どこに感動したのかはワシにはまだ言葉にはできん。味わったことがないから。

ワシにとって面白い人って、その人が見た世界をより細かい描写で伝えてくれる人。ヘーの連発で、めっちゃわかるその気持ち、とか、そんな選択肢気付いてなかった!ってこととか。仲畑さんの『この骨董が、アナタです。』は、成人男性が読めば穴があったら入りたくなること請け合います。よくぞまぁここまで自分の失敗を開けっ広げに書けるなぁと人間の大きさを思う。画伯も仲畑は男らしい、と何度も言う。画伯の言う男らしさとは、大勝負ができること。人生はギャンブルではないけど、かといって、すべきことをやっていれば自ずから大きな決断に迫られること必至。いくらシュミレートしてみても、最後は寝て待つしかない。決断が苦手なのではない。決断にビビらなくなるのも慣れでしかない。だったら、苦労は買ってでもしろってことは正しいことになる。大きな決断に迫られるということは同時にある意味数字も大きくなるってことで。

前出の盤珪の問答。

ある僧が短気な性格で悩んでいた。生まれつきの短気で、意見されても直らないという。そこで盤珪に相談に行く。

禅師いわく、そなたはおもしろいものに生まれついたの。今もここに短気がござるか?あらば只今ここへお出しゃれ。直してしんじょうわいの。

僧いわく、ただ今はござりませぬ。なにとぞ致しました時には、ひょっと短気が出まする。

禅師いわく、然らば短気は生まれつきではござらぬ。何とぞしたときの縁によって、ひょっとそなたが出かすわいの。(中略)人々みな親の生み付けてたもったは、仏心ひとつで余のものはひとつも生み附けはしませぬわいの。

と答えたという。

玉のような子についた傷が、急かされたがために短気、だったり、成功を求められ過ぎたために失敗できないプレッシャー、だったりしてるってことで。子は親に似る。

親父に似て短気でね、なんて暢気なこと言うてる場合じゃないってことね。

親父もオジイに散々急かされたらしい。ある意味ゆったりした時間を持った人やのに、どっかでものすごくせっかち。しかもそのせっかちな時の機嫌の悪さ。これを嫁に言えば、アンタのことやんって言われるやろな。最近自覚が出来てきた。

オカマのくせに男らしいってこれ如何に?って感じやけど、ちょいちょい男らしいと言われる。割と褒め言葉と受け止めてる。画伯には言われてないから、その人たちの言う男らしいとはなにかわからんけど。ちなみに、三島由紀夫と石原慎太郎の対談の中でお互いが思う男らしさが一致したそうなのやけど、自己犠牲。時代を感じるな。

こないだとり安にスープ貰いに行ったら、スープだけはやってまへんってピシャリ。キャインってなったわ。そらそうですわね、わざわざ「とり」と看板に掲げてはるんやもん、中味買わずにどーすんねんって。そらそっちが正しい。言うまでもないやろ、って話で。恐れ入る。でもこっちは小銭しか持ってへん、けど、でも手羽先100gとも言われへん・・・小雨振る中、往復しましたわ。

京都はホンマに筋が通った人が健在。そういう人は姿勢がいい。亜里子のママの着物姿にはハッとさせられる。姿勢よくあろうとしたのではなく、だって襟汚れるやん、との結果がそれ。健在。女性性とはかくあるべし、と思ったけどな。

着物着るのも慣れやろな。

苦手なんて所詮思い込み、というか過去にそうあるべきだと歪められたことでついた傷がうずくから目を背けたくなってるだけで、そこを見なけりゃ傷は癒えず玉には戻らないでしょって話。

傷を癒すために痛みは感じるのであって、痛みを感じたくないと言いながら傷口を拡げるようなことはやめた方がいいってことなのかもね。

2012/04/17

明けまして

おめでとうございます。

今年は公私共に大きく動く年になりそうです。

今年も宜しくお願い致します。

2011/01/01

日本的なことって?

この間、嵐山の商工会的なところで中国人観光客に対する対応を協議したって話を聞いた。

なにがあったのか。

商品の包みを無許可で開けることが多発。なぜそんなことが起こるのかというと中国では店頭にはサンプルしか置かないらしく、だからそれ前提に中を見るのは当然ということらしい。なぜ店頭に置かないか?

盗られるから。

あり得ないって、って思ったけど、京都の方は大人で、そんなこと言っても仕方ないから日本と中国の常識の違いを説いていくしかないと言われてた。

もう1つ。

飲食店で中国人団体客の来店、が、オーダーは1人のみ。

はぁーあり得ん。

でもこれ、なにも今、中国人だから起こった問題ではない。かつて吉祥寺でお店やってた時に日本人の若い子達に同様の行動ををとられたことがある。

5人で来て、1人だけオーダーで、他は水でって。そんなこと初めてやったし、最初なにを言ってるのかわからなかった。

オーダー頂きたいんですけどとの問いに、なぜ?との返答。

・・・もう無理。

なぜそんなことになってるのか、なぜそんなことが言えるのか、そこでなんて答えればいいのか、なにが正しいのか。

それらに対して自分なりの答えを持ちたくて、山の中での3年間という時間。

祖父にすごくかわいがってもらった。幼少期からよく京都や奈良にくっついていった。

神社仏閣の参拝の仕方、仏像の配列、意味。

物の食べ方、オーダーの仕方、器の扱い。

焼き物の窯による特徴や相撲の面白さや気遣いとはなにか、いろんなことを遊ぶように教えてくれた。

正座は当たり前、よくお坊さんの話を2時間正座で聞いて褒められた。不思議としびれなかったけど、あれは慣れかな。今は無理やけど。

百人一首は基礎素養として、また花札の勝ち方のコツ等々。キリがないのでこのへんで。ちなみに花札は1月が松で月ごとに草木があてがわれて12種あるのやけど、12月には関係のないキリがなぜか12月。それはピンからキリまでの掛詞的になってるらしい。面白い。

さて少し戻って、食べること。

例えば寿司屋に行ったら最初に生姜を食べろと。添え物にまで手を抜かない店は間違いないと。そしてガリ(生姜)、ムラサキ(醤油)、アガリ(お茶)等、知ってる分にはいいけど、職人言葉を素人が使うなと。さらに余談で、ショウガ、ショウユ等、冒頭にシがつく言葉は死と繋がるから、という理由で、らしい。茶はなんで?

ましてやオアイソ(お会計)は禁句と。そらそうだ、なぜ客がお店に対してお愛想してなんて言えるのか、厚かましいちゃありゃしないわな。

初めて行く蕎麦屋ではざるを、うどん屋では釜揚げを、とも教えられた。誤摩化しがきかないシンプルなものでこそ、その店の実力が量れるからと。

また、高島屋で買い物をして、大丸でも買い物となった場合、高島屋の紙袋をわざわざコンロッカーに入れて大丸に向かう祖父母。それは彼らの世代では常識だったよう。なぜそんな面倒臭いことを?人間、表に出そうが出さまいが多少なりとも嫉妬するもの。下手な競争心煽る必要はなく、それぞれを立てるという心遣いということらしい。もちろんそこに賛否はあっていい。ただ自分としてはいい風習だと思う。というか、それが自らの常識になっていた。

寿司屋が死を嫌い、またお会計という生々しさをお愛想してあげてという言葉に代えての気遣い、それに客側も、お店を立てるという気遣い、双方向にあった。

気遣いとは基本的に権利ではなく、義務に属すると思う。だってそんなこと面倒臭いもん。

そう、今この国には、公の概念と義務感が欠落してる。

私(プライベート)と公(パブリック)の線引きは、家の内外にあると思っている。家の中では好きにすればいいけど、一歩外に出ればそこはもう公だと思ってる。

でもお店やってた時に、なんかそれはこちらの常識で、もちろん共有できる多くの方もおられるけど、そうじゃなくなってる感も同時にあった。

多分そうじゃない方の常識は会社が公で、それ以外は私なんじゃないかと。

電車の化粧のおかしさってあそこは公の場だからでしょ。素顔から化粧顔に移行する場面を公に曝すことの意味がわからない。自分の好きな人、自分をよく思ってもらいたい相手に対して、また自分に利益をもたらせてくれるものに対しての化粧、なんですよね?それ以外の見ず知らずの人に対してはどーでもいいってことなんじゃないの?と思う。

公が狭過ぎてだから義務感が欠如し、そこを出た私の場面では権利の主張が激しさを増す。

以下引用。

憲法12条:この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によつて,これを保持しなければならない。又,国民は,これを濫用してはならないのであつて,常に「公共の福祉」のためにこれを利用する責任を負ふ。

憲法13条:すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,「公共の福祉」に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。

はぁ頭痛くなるこの言い回し。その修正だけでもすりゃいいのに。

さて。

わざわざカギ括弧を付けたけど、この「公共の福祉」ってのが曲者。

「公共の福祉」のために自由と権利を利用する責任?

全ての国民は「公共の福祉」に反しない限り、個人として尊重される?

多くの国民は、自分も含め憲法を犯してるってことでしょうか。

この解釈は突っ込みどころ満載?

ついでなんでもう1つ、前文より。

平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

「平和を愛する諸国民の公正と信義」はお隣の大国にはない。

「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」チベットやウイグルに対してまともな報道すらなされない現状はどういうこと?

「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」残念ながら確認できません。

9条はこれから議論すればいいけど、てほど時間もないけど、3章と全文に関しては改憲しませんか?

今、公の観念は個人に属してしまってる。自分の周りの人間関係なのか、住む地域なのか、国なのか、地球なのか、宇宙なのか。先ずは公とは何か、そこを再定義して、再教育する必要があると思う。

だから今、仕事は私のためになってしまってる。働くとは人のために動くということ。それは前提に公が存在してるからこそ。公がなくなってる今、働く意味がわからなくて当然。だからこそ、自信がないっていう若者が増える。自信とは自らを信じると書く。信じるべき自分がわからないから自信がないわけで、その自分とは誰かと問われれば、そのルーツを探ることで見えてくるはずだと思う。そのルーツから断絶されているから自信がないのではないのか?

自信がないなんて言うてる暇があるのなら、そのルーツ、知ろうよ。

教えてもらえることを権利だと主張したところで、誰もそんな暇じゃない。学ぶことは義務です。その義務を果たさずして自信を持ちたいなんて、そんなに甘くはない。でも結局は無意識下に権利という意識があるから、自信がないんですぅと堂々と言えるんだと思う。それ、恥ずかしいことだといい加減言うておきます。

個性なんて考えなくてもいい。自信が持てた頃には自ずと個性は発揮されてます。

この国の文化は面白い。

余白残した絵画、ボロッボロの三畳の空間での茶の作法、歪んだ器、非対称の空間構成。そんな物を良しとした国や民族はそうそうない。

愛国心?そんな曖昧模糊としたものではなく、日本的美意識とはなにかを知れば、自ずとこの国が好きになるでしょ。好きにならなくてもいいからせめて興味・関心は持って欲しいなと思うのです。

結局その私の努力が、公に役立つことになる、そう思います。

2010/10/13

現実と実現

そんなこと言っても現実は・・・。
理想ばっかり言ってないで、現実を見ろ。
よく耳にする言葉。
はて、現実ってなに?

今、目の前にある現実。
でもそれを現実と呼ぶのなら、各人現実は違うはず。

15年近く前の記憶ではすっごく美味しかったとんかつ屋。移転してて代替わりしてて、まぁそれはそれとして、でもなんだか店構えが軽くて、アレ?と思ったのやけど、まぁとにかく味わってみようとオーダー。
待ってる間、メニューの隅々まで読み込んでみると、創業からの揚げ方のこだわり、どこどこのなにを使用、こんな思いであんなこと等々。頑張ってはるのねと思いつつ、テーブルの上を見ると、いわゆる食卓塩にどこにでもある七味。なんじゃそれ。なににこだわってはるのやろ?
理想としてはこだわりたいけど、現実的には経費削減?

友人が、尼崎から芦屋の山手に引っ越した。芦屋山手と聞こえはいいけど、山手というか山中、山奥といったほうが正しいようなところ。家に行くのに有料道路しかない。不便というよりナメてんのか?というような。
でも、山の緑と眼下に拡がる海の青を目にするとそんなことどーでもよくなった。そして趣味のいい家主による、ちゃんと家自体が呼吸してそうな、天然素材で建てられた家。
そこを借りた友人は、別に金持ちのバカ娘ではない。ただ彼女がやったことといえば、どんな暮らしがしたくて、どんな景色を眺めれて、どんな間取りが心地よくて、どこまでの家賃なら出せるのか、そしてそれに対して妥協しない、それを明確に持ったこと。
理想が実現した。
理想を現実にした。

生きていくためにはお金が必要。
確かに現実。
夏は暑くて、冬は寒い。
これも現実。
地球が1回転する期間を1日と呼ぶ。
それも現実。
その1日を24時間に割って、更にその1時間を60分で割ってその進行を表す装置が時計。
これは現実?
その時間によって給与が決まる。
現実やけど、前提が少々怪しい。

お金って人間が生み出したシステム。
地球の自転、それによる季節と伴う気候の変化は自然法則。
現実ってなに?

夏が暑いといっても所詮人間にどうこうできることではない。
エアコンガンガン効かせることは対処療法で、結果それが地球温暖化に繋がってるのだとしたら、根本的な治療が必要やということになるんじゃないかと思う。
肉体感覚では暑いと疲れるし、寒いと動けなくなる。
それはこちらの問題で、人間の力ではどうにもできないことが現実、だと思う。
それを受け入れることが、現実を受け入れるということなんだと思ってる。
でも。
どうにもできないことを受け入れ、どうにでもできることを変えていくこと。
それを言えば理想だと言われる。
どうにもできないことをどうにかしようとし、どうにでもできることを諦めること。
そうすることが現実に対して努力しているとされる。
それは単なる勘違いであって欲しい。

芦屋の山奥の新しいアトリエは凛とした佇まいで、引っ越したばかりってこととは関係なく、静けさを引き出す物の配置で、その置かれた物たちはそれぞれが美しかった。
もうかれこれ20年来の付き合いやけど、彼女が生み出すアクセサリーの質が上がっていくのと比例するかのように、彼女の生活の質も上がっていった。

人間には変えようのない自然と対立することに躍起にならず、自分の理想を実現させていくことに喜びを見出せれば、それこそ自分の身の回りの現実が、理想の世界になる、そんなことを目の当たりにさせてくれてなんだかうれしかった。
ありがとう。

2010/07/02

可聴・不可聴・可視・不可視

周波としては光も音も同じ。可視光線以外の紫外、赤外は人に見えないし、可聴域以外の音は人間には聞こえない。でも間違いなくそれらは存在する。
光と音では光の方が周波数が高くて、その域を認識する装置が目で、もっと低い域をキャッチするのが耳。
目を通せば見えるという感覚で、耳を通せば聞こえるという認識なだけで、実は光りにも音はあり、音にも色がある。
光が聞こえるし、音が見えるということ。
残念ながら人間の肉体ではそれが不可能なだけで、でも肉体を脱したところではそういうことになる。

美しいとはなにか。
可聴域以外までもを作曲されている音楽が素晴らしいんじゃないのか?
可視光線以外の色彩までもを描いてあるから心揺さぶられるんじゃないのか?
音に光を与え、光に音を与えることができているんじゃないかということ。
だとしたら音を聞くときは観る必要があり、絵を見るときは聴く必要がある、ということになるんじゃないかと思う。
一流とは肉体的限界を凌駕したところにあるから一流で、それを認識できた人のみが一流のものを創ることができる、と思ってる。

今の社会システム自体が、肉体の内部の、可視可聴だけを現実として捉えることで成り立ってて、だから不可視不可聴は必要ない、合理的ではない、効率化のため、と切り捨てる。
アナログレコードからデジタルCDに移行する際、アナログには含まれていた不可聴域の部分を排除した。その方がデータ容量が増えるからという理由で。他にも意図があるかもしれんけど。
CDにもメロディやハーモニーやリズム、実際の可聴域で構成されてるわけやから、耳としては同じものキャッチするけど、実はその切り捨てられた不可聴域がすごく重要なんだと思う。
そして、その不可の部分を容認することが余裕で、そこが本質的な豊かさなんだと思う。
それをどうやって取り戻すことができるのか。

自然とは、見るではなく、観る行為、聞くではなく、聴く行為。
そう思えば今の世の中がどれだけ不自然かと思う。

不可視不可聴を無駄と切り捨てたことで、人間が美しいヴァイブから切り離され、恐れを抱くんじゃないのか?
世界とは可視可聴だけで成り立ってるわけではないのに、同量、もしくはもっと広く大きな不可視不可聴の領域があるのに、前者だけを世界と思って、そこでの安定やそこでのバランスを考えてバランスを崩す。
その可も不可も合わせた全体でバランスした時、普遍的な安定があって、それを平和と呼ぶのだと思う。

言葉って難しい。
肉体的に認識の限界があるように、言葉にもその限界があって、乗り切らない部分が多々。
でもまぁ読むって行為も文字面を追うことではなくって、その意図を読むってことやから、ここにも不可領域が存在してるってことになる。
想像や感覚なくして生きてはいけないのに、なんだか論理と理性が優先される。
とかいいながら、論理で文章書いてるわけやけど。

2010/06/21

超~同意!

今朝、TwitterのTLを眺めてたら、土井善晴氏 (@doiyoshiharu)が以下を。

美しいということが人が人らしくあること。今の日本では美しさの反対にあるものが経済となることが悲しい。美しいというだけで価値があるのだから。人が豊かになるのだから。美しさに普遍的な価値を与えなえれば、美しさはなくなるんじゃないのか。それは国の力を誠実に使ってほしい。

高価な美しいものが一つあるよりも、ふつうの暮らしにあるもの全部が美しいほうがずっと気持ちがいい。それは自然。時間。人。

本当にそう思う。物質的なものと精神的なものとがバランスするって不可能なのかなぁ。
迷ってはダメ。自分に言い聞かす。
土井先生と話してみたい。

2010/05/28