At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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アイデアとヒント

今日も、とある編集部へ。名刺もできたし、ちょっとルンルン。キモっ。
そこの編集の方に、料理ってお皿から考えるパターンから、素材から考えるパターンへシフトしてきてますよねって言われた。だからレシピのない教室なんですよねって。そうなんですー。
その話、以前にも書いたけど、黒崎サンも言ってたこと。
お皿から考えるパターン。例えば肉じゃがを作りましょうーって感じ。肉じゃがのレシピはこうですってやつ。とはいっても、考えてみると、これが正しい肉じゃがです、っていうものはないのかもしれない、と思ってます。実際作り手によって微妙に異なるやん?醤油を薄口使うか濃口使うかで変わってくるし。牛肉使っても豚肉使っても肉じゃがやし。東西南北でも、家庭によっても違うやろうし。結局は肉じゃがっぽいお料理、なんやと思う。自分にとっての肉じゃがが存在すればいいんちゃうかな。だから肉じゃがのレシピを起こすのって自分にとっての肉じゃがを表現するしかなくなる。クミンの香りのする肉じゃがは肉じゃがなのか、肉じゃがじゃないのか。気難しいヤツでしょ。
一方、素材から考えるパターン。牛肉、ジャガイモ、人参、玉葱、がありました。さてあなたならなにを作る?ってこと。カレーもあり得る。もちろん肉じゃがもあり得る。味噌汁でもいいし、ポトフでもいいし、トマトで煮込んでもいいし、じゃがいもと人参は茹でて、牛肉と玉葱を炒めて2皿にってことでもいい。じゃがいもと人参を軽く下茹でして、牛肉と玉葱と一緒にして、チーズをのせてオーブンで焼いてもいい。きっと、なんじゃこりゃ?って料理もあり得る。
黒崎サンが、お皿からのパターンに偏ったから、旬がなくなった、と言ってました。真冬にラタトゥユ作ろうとするから、年中茄子やズッキーニが必要になる。なるほど!
旬がなくなったと嘆くことや、旬を有り難がるのって、実はちょっと変な話な気もします。オーガニックや無農薬と同じこと。江戸時代には旬しかなく、オーガニックしかなかったやろうに。いつでもなんでも揃う有り難さ、利便性を求めてきて、でもそれが手に入った途端、失ったものに気付きました、ってことなんよね。
この田舎にいると、春夏秋冬という四季ではなく、もっと細かい季節の移ろいを感じます。八季なのか十二季なのか。細かく言うと、365日移ろっているって当たり前のことに気付かされます。それは都心にいても同じことのはずやけど、感性が鈍るのか、移ろいが見えないのか、もっと大雑把にしか感じてなかったなと思います。

今は庭のザクロがいい感じだったりしてね。
地の野菜を売ってるところには、今採れるものしか売ってないから、嫌が上にも旬がわかるんですよね。自然が多い場所には自然体がある。でもこの田舎でもスーパーに行けば、ほぼ年中なんでも手に入ります。
どっちがいいのか。
どっちもいい。
旬のものを食する心地良さもあるけど、時期外れと知りつつも便利さを享受して、食べたいものを食べる日があってもいいと思う。
日々糠床を掻き回しながら、丁寧に出汁を取ってみたりもするけど、コンビニのパスタをウキっとしながら食べる時があってもいいと思う。
自然に則して、丁寧であろうとする自分が本当の自分で、便利さに甘える自分は自分ではない、なんてことはない。両方合わせて、それこそがあるがままの自分。
ベートーベンもドリカムもビヨンセも好きやもーん。
なんでもかんでも丁寧に、全てにおいて精一杯、それは素晴らしいことやけど、そうはできないから、コンビニだって、ファミレスだって、ファストフードだって、ケータイもネットも世の中に存在してるんやもん。単に手を抜く、簡単に済ます、ことがダメではないはず。でもなんでもかんでも簡単便利!ばかりってのはどーかなとも思う。
時に丁寧に、時に手を抜いて、時に品の良さを求め、時に下品に暴れてみる。その都度どっちを取るか選択していけばいいのとちゃうのかなって思うんです。
あーゆーのは良くないって否定をするのは、結局自分を否定してることに過ぎない。
最終的に無理や我慢せずに、1つ1つを丁寧こなしていける自分になれれば最高なんやけどね。まだまだそんなに人間できてないから、まだまだな自分を許してあげればいいんちゃうかなって思ったりします。
ってなんの話やっけ?
そうそう、だからお皿から考えることも、素材から考えることもどっちが正しくてどっちが間違ってるわけでもないと思うし、旬も便利さも両方大事やなと思うから、その両方からアプローチできるなにかってなんやろうって、思いを馳せてみたのです、その後。
どっちかだけに正解を据えると、それが偏見なわけで、それが差別の種になるから、そのどっちもを肯定して、行ったり来たりできる感覚をみんなが身につける術はないのかなって、夢想してます。
いっぱいもらったアイデアとヒントをどうやって形にできるのか。しんどいけど楽しくて、楽しいけどしんどいことに向き合ってみようと思います。
そういえば友人が、
「想像は誰でもできる。その想像を形にするのが創造で、それができるかどうかがプロと素人の差やねん」
と言ってました。
いいこと言うなーって感心しました。素敵な友人です。