本当の望み
- DATE : 2013.05.25
- Cat : Sol
学ぶとは、まねぶ(=真似る)こと。
学問とは、真似た後に、そこを問うということ。
守・破・離で言えば、学ぶことで先ずは形式を守り、それを問うことで破り、更に離れることでオリジナルとなる、ということ。とはいえ、離れた結果、最初の守るべきこととイコールになってることが多い。ただし、守っただけのものと、離れた後に原点に立ち返ったものとは、似てはいても確実に非なるものとなっている。
現在の教育は、守ることを強制して、それを破ることを禁じ、離れたものは排他する。
本来は、守ることの意味と重要性を説くことで主体的に取り組む道筋をつけてやり、その先にそれを問い否定し破ることの勇気を与え、離れたものを褒めることにあるんだろうと思う。
往々にして、教わったことや学んだことの中から外に出ることができないだけであるのに、自ら導き出したことではないあるべき論を振りかざす、という守止まりか、もしくは学ぶことをせず自らの感性だけで認めさせようと躍起になっている、守の欠如した破である場合が多い。
前者は、白洲次郎氏がケンブリッジ大に留学中、半期授業をまとめたレポートを提出した際、担当教授から、「次郎、これは私の考えであって、あなたの考えではない。人の意見を聞いているだけでは駄目だ。まずはその意見を否定することから始めないといけない」と言われたということに通じる。いわゆる思考停止。
後者は、いきなり破ったつもりでも、それは型破りなのではなく、形崩れか形無しでしかない。いわゆる自称アーティスト。
学ぶことは、生きている年長者から単に教わるということではなく、古典や歴史上に残っているものも含め、それらを因数分解することで共通項を見出し、それを踏襲し真似る(=学ぶ)ことにあると思う。
そういう意味で、教わることと学ぶことは全く意味が違うということになる。
自ら学びそれを問う姿勢をこそ本来教えるべきことであるにも関わらず、正解は必ずあり、それは1つである、と教えるからそれを破ることに怖れが生じるんだろうと思う。
人と同じであらねばならないというあたかも正解であるかのような教えに嵌る必要はどこにもない。そもそも同じ人はいないということを学び取ることが重要。
教えられたことが絶対的に正しいという保証はどこにもない。自らが理想とする生き方を実現している人及びした人を真似、その思想を解し、その上で否定して破り、そして離れることで自らの道を歩むこととなる。
本当に望んでいる、実現したいこととはそこにあるんだろうと思います。
SOL