At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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宗教なんて大嫌い?

  • DATE : 2013.05.18
  • Cat : Sol

『平和の祈り』

ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。

争いのあるところに赦しを、

分裂のあるところに一致を、

疑いのあるところに信仰を、

誤りのあるところに真理を、

絶望のあるところに希望を、

悲しみのあるところに喜びを、

闇のあるところに光をもたらすことができますように。

ああ主よ、わたしに、

慰められるよりも、慰めることを、

理解されるよりも、理解することを、

愛されるよりも、愛することを求めさせてください。

わたしたちは与えるので受け、

赦すので赦され、

自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。

アーメン

聖フランチェスコ

宇宙は、常にプラスとマイナスで0となる。故に1の反対は0ではなく、-1。

目に見える世界だけではなく、厳然と目に観えない世界も存在しています。それはなにも霊魂やオーラなどのオカルト的なことだけを指すのではありません。現に紫外線を嫌がり、赤外線を利用してるわけですが、肉眼では見ることができません。

仮に1の反対が0であるなら、真ん中は0.5でしかなく、既に真ん中はズレています。数字に置き換えるからわかりやすいだけで、基本、0と1とで認識することを唯物論と呼ぶと同時にデジタルの世界となります。コンピューターは0と1だけで成り立っています。

少なからず一神教の世界では、1の反対は0だという認識の上に成り立っているんではないでしょうか。

仏教を学ぶことによって、明確に1の反対が-1であり、故に真ん中は0=無であるということへの理解が及びます。

ちなみに、1とは有、-1が空。

その1と-1との関係を用いることを論理と呼びます。

上記、『平和の祈り』の「理解されるよりも、理解することを」が、情緒的な問題ではなく、真理であるということを数学的論理を用いて解いてみます。以下。

理解されたいと思っている=理解されていないと信じているわけで、故に理解されないという結果に至ります。だとしたら、理解をしてあげようとするということは、理解する側の自らへの理解がないことには他者の理解なんて到底できない以上、自ずから理解に至ってるわけで、その時には既に理解されたいなんて欲求もないはずです。

「与えるので受け」というのも同様で、与えられたいと思っている時点で、足りていないと信じている以上、いつまで経っても満たされないのは当然のこととなります。今あるものに対して感謝ができないから、更に足りないという現実を味合わなくてはならないという結果に至るのです。吾唯足知。ただしここで陥りやすいのは、足りているのだと自分に言い聞かせ、頭ではそう一生懸命信じようとした所で、与えることができないんであるなら、結果は足りていないという現実を味わうしかないわけで、だからこそ考えるのではなく、自らが本当になにを信じているのかを直視する必要がある、ということなるわけです。

では、頭と心=意識と無意識をどう認識するのか。心理学の世界では自分の中には2人の自分がいる、ということは最早常識です。

いわゆるヴィパッサナーという、釈迦もやっていたという瞑想法があります。それは、基本自分の呼吸だけに自分がなるということを目指しますが、なかなかそうは簡単ではなく、やれ背中が痒いやの、足が痛いやの、お腹が空いたやの、いちいち頭がうるさいわけで、でもその際にその声に気付いて、妄想妄想と打ち消して、また呼吸に戻る、ということの繰り返すのですが、その最中のある時ふと、今まで痒いと思っちゃ掻いてたのが自分だったのに、それを妄想と打ち消してる自分がいる!と気付くわけです。これ、誰やねんと。

それ以来、自分の中では、下の自分と上の自分と呼んでいますが、きっと世間では下をエゴと呼び、上を本質とか真我とか呼んでいるんだろうと思いますが、その存在に気付いてない人はいないはずで、ただそれが明確に区分されずに苦しんでるんだろうと思いますが、とにかく、上の自分にいる時間をいかに長くするのか、ということを意識するようにした結果、集中なんてしようとしてした集中は集中でもなんでもなく、上の自分で過ごしてる時間を集中と呼ぶのだ、ということ等に気付いていくわけです。

日本人としてこの国に生まれたということは、ものすごくアドヴァンテージを持っているということに先ずは気付く必要があると思うのです。日本語の中にどれほど仏教由来の言葉があり、更にそれを日常的に使っているにも関わらず、無宗教ですっていう逃げはいい加減やめて、仏教の論理性を理解し、自らに向き合うという瞑想や坐禅をやってみることで、自ずから満たされていくということに気付いていくべきなんじゃないかと思うのです。

結論として、赦されたいのも、受け取りたいのも、理解されたいのも、認められたいのも、幸せになりたいと思うのも、欲する心である以上、今足りていない、現在は不幸であると信じているから発生する思いなわけで、だからこそ、足りてない、不幸という現実を味合わざるを得ないわけです。

誰のせいでもない、全ては自分です。

最後に以下の言葉の転載することで締めることにします。

『日本人に贈る言葉』

あなたに差しあげるメッセージは次のことに尽きる。

「日本が古来受け継いできたものに忠実でありなさい」。

仏教が興ってから二千五百年たつのに、その教えはいまだ真に生かされてはいない。

しかし二千五百年が何であろう。時の巡りの中のほんの一瞬にすぎない。

仏陀が説いた不殺生・非暴力の花が、いまはしおれかけているように見えるが、それを精一杯、満開に咲かせなさい。

私には見える 闇の中にこそ光が存在するのが・・・

 マハトマ・ガンジー

(「パリジャン」1938年12月24日)

SOL