頭を支える体
- DATE : 2013.05.17
- Cat : Sol
怒られることが嫌って思っている人ってすごく多いように思うのですが、それは裏を返せば、怒らせないように行動してるってことになると思います。
嫌がっても、怒るのは相手。
相手は怒りたいから怒ってるだけで、別に自分に原因があると思う必要ないと思います。
こちらを好きになるのも嫌いになるのも決めるのは相手。
自分を認めるかどうかを決めるのも相手。
仮に怒られるのが嫌なんだとしたら、それは怒られる原因となるなにがしかの後ろめたいものを抱えてるから、なのではないのでしょうか。
もし、なにも後ろめたいものがないなら怒られたとしても見当違いでしかなくて、なんかこの人怒ってはる、くらいにしか思わないもんだと思います。
同様に、自分を晒すことを怖がってる人も多いと思います。
それに対して、恥ずかしいことだとか、はしたないことだとか、傷付くんじゃないかとか、見下されるんではないかとか、そんな思い込みを持ってるんだと思うんですが、それがコンプレックスなわけで、ただ、自分を生まれてから一度も晒したことがないから怖れているはずで、にも関わらずやりもしていないことの先を心配して結果を予測してしまってるわけで、それは明らかにおかしな話になります。
誰でもができることをできるということも1つの能力ではありますが、そこでもやっぱり上手い人と下手な人がいて、ほぼその範囲の中での相対評価で、労働条件が決まってるわけです。
でも、その人にしかできないとか、限られた人にしかできないとか、それを見出せば、その価値に対しての絶対評価となる。
みんなができることなら、放っておいても誰かが担うし、別に自分が担ったっていいわけで、ただ自分にしかできないなにかに集中することが結果的に全体への寄与になるんだろうと思います。
誰もができることをさらに上手くできるようになることを出世と呼んでるんだとしたら、努力の割りに報いが少ないと思う。
今の世の中、みんなができることができるようになる必要があって、それ以外の特殊能力はさして必要とされていないような風潮を生み出してる。
みんなができることが上手くできない人は落伍者とされる。
頭を使って仕事をしている人が、体を使って仕事する人をコントロールするシステム。
頭と体はパラレルなのに、頭が優位を司る。
頭は共通を探り、安定を求め、安心したいもの。
ただし、物質世界では、差異しか見出せず、不安定でしかなく、心配しかない。
体という感覚が先にあって、それらを共通化させるために頭があるはずなのに、体の感覚を脇において、頭が共通させる方向へ感覚を矯正させる。
自分の体の感覚を無視して、頭という妄想の世界を優先してるのが現代で、養老孟司氏はそれを脳化社会と呼んでるんだと思う。
考える前に感じることが先にあるはずで、にも関わらず、先ずは他者の顔色を伺い、空気を読み、自身の感覚よりも、人と同じを求める。自分の感覚が鈍り、体がストレスを抱え、それでも尚無視することで病となるのは必然。
そう思えば、健康とは感覚に対して素直であることで保たれるものなのかもしれません。
SOL