At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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東京マインド

  • DATE : 2013.05.15
  • Cat : Sol

高校卒業の18歳までを生まれ故郷で過ごし、その後大阪で3年(大学中退)、東京で15年、関西に戻って3年、で現在。

ずっといる場所の魅力や価値観は、井の中の蛙とか灯台下暗しとでも言えばいいのか、そこにいる者には当たり前過ぎてなかなか客観的には把握できないものです。ベタな例で言えば、ケンミンSHOWという番組でよくありますが、その地方ではなんの疑問もなくみんながやっているために、そのことがあたかも全国的標準であるかのような錯覚に陥ってしまってて、それをその地方だけの独特のものですよ、と指摘すれば、一気に少数派だと知り、ちょっとしたパニックに襲われる、という場面に見受けられるというような。

生まれ育った加西市というところに、西国三十三所の二十六番札所の法華山一乗寺という天台宗のお寺があります。

孝徳天皇勅願寺で、開山は法道仙人。創建が白稚元年(650年)ということは、飛鳥時代にあたります。ちなみに、御本尊は聖観世音菩薩。

山中の寺で、金堂は舞台作りになっており、その中腹にある三重塔は国宝とされています。そのことは知ってはいましたが、別に子供の時から何度も見ており、古びれた小汚い、散々階段を昇らされる面倒臭い場所、くらいな認識でしかありませんでした。

それがいい加減大人になった2006年に、上野にある東京国立博物館で開催された『天台宗開宗1200年記念 特別展 最澄と天台の国宝』展に行った際、入ってすぐに『聖徳太子及天台高僧像十幅(国宝)』の展示があって、ふと解説に目をやると、兵庫県加西市一乗寺蔵となっていて驚いたという記憶があります。なぜ東京で地元の国宝を目にしているのかという。もちろんそんなものがあることも知らなかったのですが、というより、基本公開されてないので、見る機会もなかったので仕方ないのですが、それから改めて一乗寺に行くと、その後に見たいろんなお寺と照らし合いながら、ようやく客観的に見ることができるようになり、その独自性に改めて気付いたり、より細部にまで目をやれるようになったのです。

同じように、海外に出ることで日本の良い部分と悪い部分にも気付くものです。

その上で、京都という場所は、街の規模といい、都会度といい、文化度といい、なにかと都合のいい場所。とにかく京都ブランドが圧倒的で世界に通じるレベル。それがぬるま湯感を生み、だからなのか、京都の自称アーティスト達はなかなか京都から出ないということになるのだろうと思います。そのことで客観性が育まれず、よって町家という様式もどんどんと命の宿らない建材によるものに置き換えられていっている現在なんだろうと思います。とはいえ、元公家であったり、300年以上続くような老舗の当主の目の高さには驚かされることも多々。ただそういった存在の方はあまり表には出てこられないものです。

他方東京は、世界的に見ても土地面積の広大さと人口の多さは世界一レベル、学歴の偏差値の高さも日本一でしょうし、とにかく日本一が一番多いところではないでしょうか。そして地方出身者も多い。高校を出てすぐに、自分の価値観も確立していない中、東京の大学に入り、学問するより遊び呆けて、なにがしたいかわからないまま知名度や安定度なんかを拠り所に就職してしまえば、東京の価値観が自分の価値観に置き換えられるのは言うまでもないと思います。

さて、東京の価値観とはなにか。

多い、高い、大きい、ことに価値があるという思い込みなんだろうと思います。

学歴の高さ、有名度の高さ、収入及び貯蓄の多さ、会社規模の大きさ、売上高の高さ等々。それらに価値がないとは言いませんが、それらは単に結果でしかありません。にも関わらずそれを前提に据え目標とするから、おかしなことになっている現在なんだと思います。その価値観に依る考え方が、今日本全国に及びつつあります。

わかりやすい例で言えば、ゆるキャラによる町興し。ゆるキャラがかわいいのかどうかはさておき、本来的にその土地に魅力があり、それをその当事者が認識しているのであれば、そんなことしなくても知名度はあるはずで、ないからこそ、それを上げるために、ゆるいキャラを使って売名をするんでしょうが、それで知ってもらったところでその地を訪れてみたら看板倒れでしかなく、二度と行きたくもない、となった場合、そこになんの意味があるのでしょうか。

有名になるために必死になってやってみたものの、いざ周りには本当に認めてもらいたい人の存在はなく、いわゆる太鼓持ちだけだった、という笑えない話はよくあります。

それを卑近な個人的に置き換えれる例えですれば、ある人との会話の中である人物名が出たとします。その相手もその人物を知っている、そこまではいいのですが、問題はそこからです。その人物を私の方がよりよく知っている、私の方が親しい、というアピールが始まることが多々あるんですね。ただ、そのためにいろいろとその人物についての情報を述べられるのですが、どうも大して知ってないということを本人が露呈していることが多いのです。仮に本当に親しいであるのなら、その相手に対しての情報をそんな短時間で述べられるはずないですよね?一緒に過ごした時間が長ければ長いほど、その相手に対しての思い出が積み重なっているわけで、ましてや知っていることを言うまでもなく、そこに付き合いがある以上、そんなアピールは意味がないわけです