At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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自分のすることを愛せ

  • DATE : 2013.05.06
  • Cat : Sol

表題は、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の中の有名なセリフ。その前後は以下。

「村を出ろ。ここにいると自分が世界の中心だと感じる。何もかも不変だと感じる。今のお前は私より盲目だ。人生はお前が観た映画とは違う。人生はもっと困難なものだ。帰って来るな。私達を忘れろ。手紙も書くな。郷愁に惑わされるな。我慢出来ずに帰って来ても、私の家には迎えてやらない。分かったか。自分のすることを愛せ。子供の時、映写室を愛したように」。

この映画を観たことがない人にとっては唐突過ぎてわけがわからないかもしれませんが、これだけを聞くと非情と捉えられるのでしょうか?

自分を愛しなさいという言葉をスピリチュアル系の本等でよく目にしますが、では愛するとはどういう意味なんでしょうか?また、どうすることで自分を愛せるのでしょうか?

よくよく引用しますが、マザー・テレサが、「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」という言葉を残していますが、ここで読み取れるのは、無関心の反対が愛、即ち関心を持つということ、また、憎しみも愛の一部であるということです。憎しみを抱く時点で関心があるからこそで、無関心な対象にはなんら感情は抱かないはずです。更に言えば、愛の反対を憎しみだと捉えている人が多いんであろうということで、その反対を愛だと捉えてるということも読み取れます。

そこで導き出されることとして、自分を愛するということは、自身に対して関心を持つということになるわけですが、そうではなく、自分を憎しみの反対、辞書的に憎しみの対義語は慈しみとされますが、そうでもなく、きっと可愛がるとか甘やかすという意味で捉えられてる方が多いんではないのでしょうか。その結果、いわゆる自己憐憫に陥るのだと思うのです。

少なからず、映画の中のセリフで、村を出ろと言われているということは、出ることに躊躇があるからということで、子供の時の気持ちを忘れ、自分のしたいことよりもぬるま湯の環境に自分を甘やかしていることが見て取れるわけです。

再度言いますが、自分を愛するとは、自分自身に関心を持つということです。

さて、ここでは自分を愛せと言ってるわけではなく、自分のすることを愛せと言っているわけです。置き換えれば、自分のやっていることに対して関心を持てと言ってることになります。

今やっている仕事に関心がありますか?

とりあえず生きるためにお金が必要だから関心がないことであってもやっている、のでしょうか?関心がないことである以上、愛ではないということで、お金のためであるということは、愛よりもお金を重視しているということになりそうです。

では、生きるために必要で、愛よりも勝るお金について関心はあるのでしょうか?

なぜ生きるためにはお金が必要なんでしょうか?

そもそもお金とはなんなのでしょう?

そうなれば、お金に対しても無関心である、ということになります。

逆に言えば、お金に関心がないから、お金にもそっぽを向かれる、がために、いつまで経ってもお金からは自由になれず、お金のために働かなければならない、という結果に至ってる、ということになりそうです。

自分のすることを愛するということは、今取り組んでる仕事が好きでなかったとしても関心を持つ努力をする必要がある、と言っているということです。それならば、元々関心があることを仕事にすれば話が早いということになります。しかしながら、大人は好きなことを仕事にしてはいけない、と言います。ここで混乱が起きるわけですが、好きと関心を持つこと(=愛)は、根本的に違います。好きとは、恋と置き換えても差し支えないと思いますが、いわゆる執着であり、所有欲であり、嫉妬の因となるものです。恋愛というのは、恋を通過することで愛に至る、逆を言えば、愛に至るためには恋を経験する必要があるということです。故に恋愛なんであって、決して愛恋なのではありません。

戻りますが、恋の感情で仕事をすれば、執着がある以上、必ず破綻をきたします。だからこそ、好きなことを仕事にしてはいけないと言われるのだと思います。間違っても関心のあることを仕事にしてはいけない、とは言ってないはずです。

とはいえ、お金のために関心がないことを仕事にしてしまったんであるなら、先ずは今やっていることに対して関心を持つことです。どうしても関心が持てないから関心があることを仕事にしたいので職場や職種を変える、それはそれでいいでしょう。しかし、自分のすることを愛せと言われてるんであれば、生活するためにお金が必要な以上、そこで否が応にも経済活動に加担しているわけですから、自分のしているそれに対して関心を持つ必要がある、とういうことになります。

例えば、いいなと思った服があったとします。試着して似合ってて、いくつかの着回しまで思いついた、さていくら?と思ったら想像以上に高かった
、そんな場面、生きてれば何度も味わってるはずだと思いますが、そこで断念するということは、自分の思いに応えていない以上、欠乏が生じます。そこで自分よりもお金を優先してしまってるわけですが、ではそのお金とはなにか?に対して関心を持つ必要があるはずです。それが自分を愛することであり、自分のすることを愛することでもあります。

生きるために必要であるはずのお金、そんなにも大事なものであるにも関わらず、関心がなく、そもそもの成り立ちも知らず、経済?みたいな状態でしかないのに、だったらなぜそんなにも大事なんでしょうか?ということになりはしないでしょうか?

いいなと思ったものがお金がないために手に入れれないんだとしたら、ではどうすればそのお金を作れるのかを考える必要があり、潤沢にお金が回っていないのであるなら、なぜ回ってないのかを知る必要があるはずです。

思った以上に高かった、ということは、自分の見る目がなかったわけではなくて、逆に見る目があるということです。例外的にくだらないものでしかないのに、法外な価格設定をしているということもありますが、基本的にいいものだからこそ高いわけです。お金がないからそのいいものを諦めて、手持ちで手に入れれるもので我慢するということは、自分で自分の価値を下げているということになります。本当は着たいと思っている服をお金のために諦めて安いもので済ますということは、そこに自分に対する嘘があるということで、でも他人はその人が身につけているものが着たいものだと思うわけですから、そこに誤解が生じるわけです。本人にしてみれば、それは誤解だと言いたくもなるのでしょうが、誤解を招いたのは誰でもない、本人でしかありません。それを河井寛次郎氏は、「物買ってくる 自分買ってくる」と言っています。

そもそもお金とは、自分が欲しいものを手に入れるためのツールではありますが、例えば醤油を買うとした場合、どちらも同じ分量として、某大手メーカーの添加物まみれの上3ヶ月で作られた1本300円のものと、小商いで昔ながらの仕込み方で2-3年掛けて作られた1本1,000円のものがあった場合、どちらを選びますか?

安い方がいいという選択肢があってもいいのでしょうが、また高い醤油を買えるのはセレブだから、と言いたくもなったり、贅沢だという風潮があるのもわかりますが、果たして本当にそうなんでしょうか?高い安いの問題以前に、健康的に問題ないのかどうか、またしっかりと丁寧な作り手によるものを買い支えないことには、そこにある伝統や誠意ある行為が途絶えてしまう恐れがあるわけです。

買うという行為は、自らの欲求を満たしつつも、作り手や販売者を応援する投票行為でもあるのです。そして、その意識でお金を使うからこそ、自身に対しても応援してくれる人の存在が現れるのだと思います。少なからず応援しようという意識がある以上、自身のやっていることに対しても関心がないはずがなく、お金の使い方にも関心を持っているからこそ、巡り巡って戻ってくるということになるのです。

先ずは、自分のしていることを愛することです。

SOL