個性とはなにか
- DATE : 2013.05.03
- Cat : Sol
オリジナリティとか個性とかを開発したり伸ばしたりできるとの錯覚があるようですが、それは頭で、今世にないもの、新しいもの、物珍しいもの、を考えてるに過ぎないということです。
コンプレックスと言いますが、それは人と違う部分、少数派に属する部分、だからこそ、恥ずかしいと感じたり、隠そうとしてみたり、自分で卑下をしてみたりするものだと思うのですが、それこそが最大のオリジナルであり、個性なはずです。
真似しようとも真似できない部分であるからこそ、そこをこそオープンにし、活かすことで、オリジナリティとなるのです。
往々にして、人が評価したものを理解しようと齷齪するものだと思いますが、大体人と自分が同じものを見ているかどうかなんてわかりません。
同じ看板を見ても、瞬時に何屋か見抜ける人がいるかと思えば、全く読み取れない人もいるわけです。何屋さんかわからない人には所詮説明したところでわからないわけです。それは、その人の中にあるカテゴリーの中で判断してしまってるからなわけで、それを取り払えない以上、無理ということになるわけです。また、ある空間を味わったとしても、ディテールまで目を凝らし音を拾いする人と、なんとなく過ごした人とでは、得る感想は全く違ったものになります。単純な話、同じ映画を観たはずなのに、ストーリーだけを理解した人がいれば、それすら理解できてない人もいて、また、そこに潜む演出まで見抜ける人もいるわけです。絵画や骨董なんて正にその極み。土をこねた小汚い歪んだ壷としか思えない人と、雷に打たれたような衝撃を受ける人もいるわけです。
しかしながら、ダ・ヴィンチの絵しかり、評価がついたものに対しては、疑いようもなく、素晴らしいと言えてしまうわけです。そこでは本人の目は機能していないということになります。
正しいか間違えているのかは、時代が評価してくれているわけですから、残ってきたものに共通するものがなにかを理解し、今あるものをその基準に載せることで、それが後世に残るかどうかわかるはずなのです。
話は戻りますが、自身の偏り、コンプレックスと呼ばれるものを否定することなく肯定し解放することで、その目を養うことになります。見たくない部分を直視するからこそ、秘した部分を見抜けることになるのは当たり前の話です。
物珍しさを考えて作り出すことはさして難しいことではありませんが、それを一旦やってしまうと、それ以上のことを求められ応え続けなければならなくなります。紅白の小林幸子がその最たるもの。どこまでやれば気が済むのかという。だから無理が生じてトラブルになった、とは言い過ぎでしょうか?
そうではなく、自身に宿る人と違った特異性、偏った部分をこそ愛することで、オリジナリティは否が応にも発揮され、その結果、五感は冴え、表面上に立ち現れる前のカタチなきカタチを観、音なき音を聴く、能力が養われるのだと思うのです。
百人一首のクイーンが言います。残り2枚になれば、読まれる前であるのにも関わらず、どちらが読まれるのかわかる、と。別に彼女はいわゆる超能力者でもなんでもありません、がそれこそが自己開発による、能力を超えた能力である以上、本来的な超能力なんでしょう。
否定されることを嫌う人が多いですが、今一度自身に問うて欲しいと思います。
自身の内に、自身に対する否定はありませんか?
コンプレックスを有していたりはしませんか?
自分は人より劣っていると思っていませんか?
それがあるとすれば、それこそが嫉妬の因であり、他者からの否定を呼ぶ因であるのです。
この世に劣っている人はいません。
才能がない人もいません。
魅力がない人がいるわけではないのです。
単に、自分が自分に対して、また人と比べて、自分は大したことがない、と信じているに過ぎないのです。
人と比べて勝ってるや劣ってるやと思うのではなく、自分の持って生まれたものがどれだけ素晴らしいものか、今一度味わってみることだと思います。それをせずに、人の能力ばかり見てしまうから卑下が起こるのだと思うのです。先ず自分の内に眠るコンプレックスとしてしまってる部分をこそ直視すべきなのです。
正解を求め、それに即して生きることが正解なのではありません。
先ずは自身の真実を掴み、その上に生きることが正解なのです。
誰一人として同じ肉体を有していないのです。
人と同じことができないことを悩む必要はありません。
学校教育で受けた歪みからそろそろ自分を解放する必要があるのだろうと思います。その結果、自身にしかできないことが自ずから観えてくるものだと思うのです。
SOL