At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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捨てるべき私

  • DATE : 2013.05.02
  • Cat : Sol

京都の大店のお主人がおっしゃいました。

「昔から、よくお金を貸して欲しいと来られますが、うちなんかにお越しの時点で金融機関はNGなわけで、ということは、返せる見込みがかなり低いということです、が、それでもうちは大して事情もお聞きせずに、差し上げるつもりでお貸しします。お困りなんでしょうから、情けは人のためならず、うちもいつ人様のお世話に掛からなければならない状況になるやもしれませんので、お互い様だと思っています。実際、お貸しした分を利子をつけてお返し下さり、そのご縁で長く良きお付き合いに発展したことも数知れません。ただし、それは直接お越しになられた方に限ります。手紙や電話でご相談されましても、それは全てお断りさせて頂いております。お願いごとをされるのに、そこで尚ご自身のご都合を優先されるようなお方に、信用を置くことはできしません。恥を忍んで尚お顔を拝見させて下さるお方の覚悟をこそ、信用と捉えます」。

メールや電話やFAXのみで、こちらが認識がない、にも関わらず、ファンやのなんやの言いつつ、内容にご賛同頂けるなら取材やフリーペーパーを置かして欲しい、という依頼がよくあります。仮に内容に賛同したとしても、その姿勢に賛同ができませんので、先ずはお顔を見せて下さい、と伝えるのですが、じゃぁいいです、みたいな反応なんですね。そんな無茶苦茶は話、たまったもんではありません。

ここで共通するのは、お願いをしておきながらも、私の都合を優先させてしまっている、ということ。

では私とはなにか。

天皇という存在を例にして説明してみます。

天皇の主たる仕事は、人民の安寧や五穀豊穣を祈ること。

年明けの深夜のクソ寒い中(だけではないですが)、(私を殺して)人々のために祈って下さっている。別に誰に頼まれたわけでもないのに、も関わらず。

命よりも経済を優先し、嘘で塗り固めたような世の中に対し、憲法上文句も言えない中、それでも祈って下さっている。自分のような半端な人間なら、アホらし、と思って、もうやめる、と言いたくもなるような状況であるにも関わらず、それでも尚行って下さっている。もう今年はいいか、って仮に思ってらっしゃったとしても、やーめたなんてことは言わず、やって下さっている。

天皇という立場に生まれたことは一つの運命であったとしても、彼も一個人であります。もしかすると、自分もあの立場に生まれなければならなかったかもしれない。なぜそんな負担を彼一人に押し付けることができるのか、少々心を痛めます。

人間誰しも、私=プライベートと、公=全体に寄与するという二面性の中で生きているわけです。古来日本では、家(うち)の中が私であり、そこを一歩出た空間は公だったわけです。だから関西の女子の一人称に、ウチというのがあるのだと思います。ところが最近は、お金を稼ぐ場所のみが公で、それ以外は私、下手すれば、そのお金を稼ぐ場所ですら私で通そうとするきらいがあると思います。

例えば、電車の中での化粧。なんのための化粧なのか、と思います。私を良く見られたいがための化粧でしかなく、しかも、良く見て欲しい相手にとってのみの化粧なわけです。電車の中は公の空間であるのに、それを私物化しているからこそ、そこに不快感を持つ人がいるわけです。

仕事とは、公に寄与するものであるのにも関わらず、私の都合を優先するからおかしなことになるんだろうと思います。マスコミなんてその最たるものであるのにも関わらず、私が強い人たちが多過ぎると思います。

公に対して与える影響が大きいからこそ、そこに属する人たちは謙虚であり、本当に役に立つ情報の提供であり、公の秩序を正すべき役割を担うべきはずだと思いますが、まるで自分達が世の中のトレンド(敢えて古い言葉で記しますが)を作り出し、さも動かしてるような錯覚をしている人が多過ぎる。

米・マクドナルド社のCEOは、自社の商品を家族には食べさせないそうです。そんな倫理観の欠落した商売がまかり通ってるわけですが、ここに公なんて意識は全く感じられません。所詮アメリカ、人を騙しても私の利益を考える国ですね。が、しかし、それを現代日本人が批判できるのか、甚だ疑問です。自分達は無添加調味料を使いつつも、客には業務用の化学調味料まみれのものを使ってはる場面、少なからず何度も目にしてますが、どうなんでしょうか。

完全に私を殺し公のみに生きるなんてことほぼほぼ無理でしょうが、少しは公ということを意識して私を殺す場面があってもいいのではないかと思います。

私の利益を第一に考えるから、公が成り立たない世の中になってしまっているんであろうと思うのです。だからこそ、命よりも経済が優先されるような永続性のないことがまかり通るんだろうと思います。それは世の中がおかしいのではなく、それを構成している私に問題があるから、なわけです。私よりも公を優先しようとする意識を多少なりとも大人と呼ばれる人たちが持つことで公が成立するんだろうと思うのです。

いい加減大人と呼ばれる年齢に達した方が、この歳になると叱ってくれる人がいない、と仰ったりしますが、それは幼さの露呈でしかありません。大人であるなら、先ずは自分が自分を叱ることができてこその大人なはずです。だからこそ、他者に対しても叱ることができる。少なからず、叱ることは私を殺すことである以上、それは公である、ということになるからです。

私を生かすことで公は死に、私を殺すことで公が生きる。

公が死んだ世の中は生きにくいのは当たり前の話で、生きやすい世の中のためには私を殺さなければならない、ということだと思います。

SOL