At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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空間とはなにか

  • DATE : 2013.04.25
  • Cat : Sol

いわゆる気の利く人、気の遣える人、というのがいます。同時に、利かず、遣えずという人もいます。

その線引きがどこにあるのかは定かではありませんが、先ずもって、気が利かない人というのは、気になってないから利かないわけで、往々にして気を遣われてても気付いてない、ということになります。

それは、気は観えないのだからないんであって、ないものを利かしたり遣えたりするはずがない、という前提なんでしょうか?

それとも、観えずともあることはわかってる、けど、どうすることで利かしたり遣えたりするのかがわからない、ということなのでしょうか?

気遣いとは、心遣いとも置き換えられます。

気は観えないと否定したとしても、さて、心も観えませんが、果たしてその存在までも否定できるでしょうか?

心とはなにか。

その定義・解説は、心理学等に委ねることとしますが、気なり心なりを遣いたければ、もちろんそれだけに関わらずあらゆる物事においても否定しているものを遣いようがない以上、先ずはその存在を肯定することから始める必要があります。

さて、「空間」について。

読んで字の如く、「空」の「間」、間仕切られた空きのある部分。

空きとは、空き地しかり、空き家しかり、ないのにあり、あるのにない、というものです。

ということは、空間を構成するということは、物と物との「間」にある、「空(あき)」の部分をも満たしてこそ、成り立つのだと思います。

その「空」に漂うものは、「気」であって、故に「空気」なわけです。ここでいう空気とは、二酸化酸素や酸素ということではなく、いわゆる読んだり読まれたりしてる、例のアレです。

その「気」とは、目に観えないにも関わらず、利いたり、遣えたり、置いたり、回したりできるようです。また、それを持ちの良いものにしてみたり、悪くしてみたり、本来は自由自在のはずなんですが、観えないのをいいことに、軽く扱うからこそ、気のない素振りをされてしまう、ということになるんだろうと思います。

逆に言えば、観えないにも関わらず、丁寧に扱うからこそ、「気」が見えるカタチとなり、気になる存在とされるのだと思うのです。

その上で、物と物との間を満たすことに意識を置いたとして、とはいえ所詮扱えるのは、物でしかありません。

例えば、なにもない(とされる)空間に、物を置くとします。

ここで必要な要素として、デスクとイスを1セットとした場合、それをどうやって選ぶのか、という作業が発生します。

・とりあえずテキトーに買ってくる

・使用目的によってのベストであろう選択をする

・そもそもデスクの持つ機能とは?イスとしての条件を満たすものとは?と根源まで遡った上で、選択肢を見直す

・直観的なイメージをカタチに起こす

等々。

なにが正解というわけではないと思いますが、この作業の如何によって、なにも置かれていない「空」の部分に影響を与えることになる、というわけです。

ここまでくれば最早説明の余地はないと思いますが、心に向き合ってる度合いに応じて、気の持ちが違う以上、それが良かったり悪かったりする、ということです。

この世の中には、目に観えずとも、確実に存在しているものがあります。

それを観えないからない、としてしまうことを合理化と呼んでいるのかもしれませんが、観えてないだけであるものはある以上、そこに無理が生じるのは当たり前の話です。

少なからず観えずとも、感じ観ずるわけで、だったら、それを肯定し、受け容れた上で、遣いこなす意識を持つ必要があるんではないでしょうか?

放射能や気化したサリンは見えません。

人間のエゴのために生み出されたものは、気の持ちようが悪い以上、そんなものが充満した空間は、やはり気配的に違和感があると思います。

なにもないのではなく、観えないだけで、なにものかが満ち満ちているのが空間。

どうせなら、それを意識して気の利いたもので満たしたいもんだと思います。

SOL