温故on温故 vol.2
- DATE : 2013.03.01
- Cat : 京都どーすか?
「以前お伺いした際、縦軸にたてはなを置いて、横軸になげいれを置いて、その交わる一点で活けたいと仰ってた記憶があるんですけど、あれはどーいう意味やったんですか?」と伺えば、「今は縦が横でもどっちでもいいわ。縦横無尽」。
・・・わっけわからん、けど、そんな風に言えるようになりたいっす。
「アナタが源兵衛さんの回で書いてる、荒事(アラゴト)・和事(ニギゴト)って縦横でしょ?」
え?そういうことなんですか・・・?
「要は、荒魂がスサノオで、和魂がアマテラスで、交わる1点がツキヨミと置き換えてもいいんじゃない?河合隼雄先生とかが日本文化の根幹は中空って言うてるでしょ、つまり空っぽ。そういうこと」。
めっちゃオモロい!ですけど、増々わかりませんがな。とりあえずそういうもんだと今は知っておくだけでよろし、ということで、縦横無尽な今の境地として、
「なげいれはバッとなげいれてこそ、なげいれなんです。折ったり切ったりした時点で「~流」になってしまうわけです。バッとなげいれるにしても、なげいれようと意識した時点でなげいれではありません」。
確かに、さりげなさを意識した時点で、既にさりげなくはない。かといって、バッとなげいれればそれでいいのかといえばそんなはずはあるまい。無意識でやっても様になるような基本形が身に付いていてこそ、ですよね?
「織物はピンと張られた縦糸に、横糸を織り込むことで完成しますが、完成した織物に縦糸を見出すことはできないでしょ。しかしながら、縦糸のない織物は存在しないのと同じことです」。
はっはーん、それは白州正子氏(川瀬さんとの共著に『花と器(神無書房)』がある)の言う、
「古いものの中から生活に合ったものを見出すのは、利休以来の日本人の伝統である。現代は独創ばやりの世の中だが、現在を支えているのが過去ならば、先ず古く美しい形をつかまねば、新しいものが見える道理はない」。
ということに通じますよね?
古く美しい形を知ることで、新しいものを見出す=温故知新なわけで、知新温故とはなりようもないということか。更に古く美しい形なんて意識せずとも体が勝手に動く=身に付くまで自分を持っていくこと=見えない縦糸、ってことなわけで。
温故=伝統を縦軸に置いて、知新=革新を横軸に置くことで、伝統的で革新的なもの、伝統的で革新性のないもの、伝統のない革新だけのもの、伝統もなく革新もないもの、が発生する。平たく言えば、広く浅くか狭く深くか、という話になるけど、狭く浅くもあるし、広く深くもあるよね、という。ということになれば、川瀬さんの仰るなげいれとは、広く深く=伝統的で革新的であるという、縦横の軸を超えてしまったところ=縦横無尽な境地、に至って初めて成立するってことですよね?
「そうなれば中心が全体に広がってるでしょ?日本文化の中心は中空、即ち無。『私』が活けてるうちはダメってことね。自身が花になってこそ。花に『私』はありませんから」。
縦横無尽で無私の花人を生んだ街、京都どーすか!!!
Meets 298号より