臭イモノノ蓋ヲ解放セヨ
- DATE : 2012.12.06
- Cat : Sol
スーパーで買った肉を食うことが「ある」のに、
そのための屠殺を担ってる部落出身の国家公務員を見「ない」ことに、
してしまってるという現実。
この対立を補完にする=レイヤーを上げれば、
屠殺はみんなで負担して差別を「ない」とする
or
人が肉食を「ない」とする
ということになるのであろう。
前者の「ない」が空で、後者の「ない」が無であるということ。
空とは、「ない」のではなくて、「ある」のに「ない」とされている領域を指すんだと思う。
無意識=体=地球環境等々。
元気、天気、空気、短気、暢気、気配
気遣い、気配り、気違い
気持ちいい
気という言葉を日常でどれだけ使っているのか。
でも気は見え「ない」。
かといってそれを「ある」と感じ観じてるから言葉は存在し、実際使っているわけで。
日本において近代以前は、気は見え「ない」としても、「ある」ものとして扱ってきた歴史がある。
最近は、見え「空い(造語=ない)」から「無い」ことにしてしまうという場面が多い。
それを合理化と呼んでいるのだと思う。
「空い」けど「ある」=空
「無い」から「無い」=無
「無」いものなんてどうしようも「無」いんだから、「空い」ものを意識して取り入れて、カタチ「ある」ものにすることが、今、必要なんじゃないかというのが、ここ最近の一連。
現実問題、大事なのはカタチ「ある」部分だけ、「空い」ものは「無い」んだから、との錯覚の上で作られたものが溢れてるわけで、それらが肉体的にも感情的にも精神的にも健康を害してるのは言うまでもない。
空の欠如したものは「空い」わけだから、仮にカタチになったとしてもすぐ壊れるし、所詮ゴミになる。そんなもん食うてたらオカシなるわ。
空に満ちたものであれば、それこそが「空(空いとされているものがある)」なわけで、結果、経年変化して増価する。健やかであるからこそ成長していくもの。
可能性が「無い」ところを目指すのではなく、単に見え「空い」だけの領域にアクセスすることを意識化すれば、カタチは自ずとついてくる。
それをアートと呼ぶはず、なのに、カタチしか「無い」ものでもとにかく作ればみなアーティストな現在。
気配を感じない生き物なんていないはず。
あるのは感度の問題。
感度であるなら、あとからいくらでも開発できる。
瞑想、坐禅、ヨガ、セックス、キノコ、アメリカでは州によっては解禁になったらしいマリファナ等々。
いろいろあるんだろうと思うけど、結局、一番いいのは、
正直であること⇄嘘つくこと=自分を活かすこと
なんじゃないかと思う今日この頃です。
*造語
「空い」
・読み
な(い)・ナ(イ)
・意味
「ある」のに「な(空)い」とされていること
Sol