非常識の常識
- DATE : 2012.12.01
- Cat : 京都どーすか?
『この骨董が、アナタです。(仲畑貴志著)』という本がある。この言葉は白洲正子氏によるもので、著者でコピーライターの仲畑さんは白洲氏から最後の数寄者と呼ばれたそう。この本の中に画伯という人物が登場する。架空のようではあるが、実在する人物。この画伯、実は以前努めていた会社の取締役で、自分に骨董をやれと薦めてくれた人物でもある。で、その画伯が先日、京都で270年続く帯匠・十代目誉田屋源兵衛さんを連れて来店。今一緒に荒妙和妙(アラタエニギタエ)なんとかという名で、苧麻布や大麻布の研究をやってはるらしい。ちなみに源兵衛さんの奥さんは、『素夢子古茶屋』という韓国カフェを三条通室町でやってはる。その画伯と源兵衛さん、共に六十代なのやけど、最強。二人の言う「そんなん普通やん」という言葉の普通じゃない加減は半端ないのやけど、当人たちは至って普通で過ごしてはる。一体どういうことか。
二年前、源兵衛さんがユナイテッドアローズと組んで、着物のショウを六本木ミッドタウンで催されたのやけど、その際のDVDを見せてもらった。想像する男物の着物からはかなり逸脱した、色目も柄も派手なもので、デザイン性に優れた着物と評されたよう。だが、それらの着物のデザインは源兵衛さんによるものではなく、安土桃山あたりでは当たり前にあったものだそう。今イメージしている鼠やの鮫小紋やのいわゆる地味な着物は、家康の政策の結果によるもので、武家から武術を取り上げ、能や茶の湯、いわゆる和事(ニギゴト=大正期に死語に)に向かわせるというもの。それに対して荒事(アラゴト)とは、虐げられてきた者たちによる反体制的な意思の体現、傾奇=歌舞伎。前述の派手な着物は、いわゆる傾奇者が着ていたものなんだとか。今イメージする着物は和であって、では荒はいずこへという話。そういう意味で、草食系男子が増えるのも仕方ないのかも?和=幽玄とするなら、荒=拉鬼(ラッキ)。幽玄や拉鬼は藤原定家の和歌十体のうちの二つ。幽玄=侘び寂び、拉鬼=デフォルメ。日本文化の美意識と言えばすなわち幽玄とされるけど、荒の欠如同様、拉鬼の表現も影を潜める現在。きっと普通とはひとつではない。少なからず和の普通と荒の普通が存在するはず。でも現在は和のみが普通として成立していて、荒はなかったことにされている。だからこそ、歌舞伎役者にも和の普通を求めるのやろうけど、それは求める方がどうかしてるはずなのでは?
天皇がいて、将軍がいるという二重構造であった日本。権威と権力が並立した国の歴史は珍しい。これは一神教の世界では理解し難いことではないかと思う。いずれかへの傾倒や一極集中を統合というのは勘違いかもしれない。いずれかが正しければ他方は否とするというのは間違いかもしれない。そんな常識に疑問を抱かせてくれる京都、どーすか?
Meets 295号より