At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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恥ずかしのスピリチュアル話

  • DATE : 2012.11.30
  • Cat : Sol

先日、30歳の頃に初めてのキラキラと書いたけど、別に光やヴィジョンが観えたわけでも、声が聴こえたわけでもなく、ただただ幸福で、訳もなく涙するような3ヶ月くらい、やったような。

それまでも、オーラとかチャクラとかお金とはエネルギーである、なんてことは耳にしてはいたけど、この頃会った横浜のユリアさんという、当時オーラの写るカメラとやらで撮影してカウンセリング、みたいな人から得たことが衝撃的で、それまで信じていた世界が単なる思い込みでしかなかったのかもしれない、そんな視点思い付きもしなかった!ということが連発で。その足でなぜか東北へ行き、結果、オーラソーマに出会い、ちょいちょい出てくる清水香名さんとも出会うことになる。その頃仙台にいた彼女、エンジェルリンクなる、天使のエネルギーと繋いでくれるというセッションをやってて、受けてみたところ、なにやらミカエルと繋がった、そうやけど、さてどうだか。で、震災後、京都に来て、いろいろありながらも馴染んでる。元々大阪出身ってのもあるのかもしれん。今となっては京都の姉のような存在で、口悪く罵り合ってたりするから不思議。

前後して、オーラソーマの資格を取るためにせっせと勉強し。大概胡散臭い。でも色の言語化、感覚の言語化、数字に与えられた意味、生まれた星の位置と性質等々、かなり内側が整理がされたのも事実。

更に前後して、マクロビオティック=玄米菜食→宇宙との調和という考え方も実践したことがある。基本玄米を主食とし、動物類は食さず、魚も少々。嗜好品関係もNG多し。その提唱者の1人でもある、久司道夫先生にも会わせて頂いたことがある。会うなり、豚食べてきたでしょ、とタバコ片手にコーヒーすすりながらの大正解。その日、良恵(EGO-WRAPPIN')と3人で対談の予定で、その前に新宿の『あえん』で無農薬野菜と大葉巻ロースカツと麦ご飯みたいな、ちょっとは気を遣ってみました的なノリも通じず。全てを見通すような眼の人やった。あの人に会って、見えないものが観えるってことは実際にあると確信したな。ちなみにその模様は、後にecocoloで2号にわたって連載になってたり。

とにかく正解が欲しくて、肯定されたくて、あわよくば悟りたかった日々。

それがどこでどうでもよくなったかというと、いよいよ親父の会社を手伝うことにしようと一大決心をして東京から地元に戻ったのに、1年も経たずしてどうにもこうにも無理で、京都へ、という過程で、どれだけの罪悪感に苛まれたかという。

もうええわと、自分で自分のことを諦めた。

どーしようもないなと。

我慢とかの次元の問題ではなく、わからないことはわからない。

親父とわかり合えたことがあるとするなら、どうにもこうにもわかり合えないということ。

それ以来、なんだかそこそこ会話がなってきたから不思議なもんやけど。

結局、親父にわかってもらいたくて、認められたくて、信じて欲しくて、褒められたかったんやなと
悟った。

叶わないこと。

わかり合えないからといって、嫌い合う必要はないわけで。

そうなると更に不思議なことに、親父と同世代やお坊さんと親しくなった。妙に話が合う、というか話が早い。いちいち説明を要しない楽さ。やけども多世代多職種あるわけで、説明しなきゃならん時も多々あるわけなので、こうして文章に認めておいたりしてる。書きたくて書くのではなく、書いているという状態。

スピリチュアルという、オカルトとなにが違うのん?と思われる世界も、それはそれで奥深い。

それが正しいのか間違っているのか、そこに正解があるのかなんて知ったことではないけど。

いずれにせよ、あるものがあるために、ないものがあるという領域というのも存在する以上、そこも意識した方がいいよというのがスピリチュアルであり宗教なんじゃないかと。

それを踏まえれば、なにかを意識した時点で、それは実在はしなくても存在はしてるのだと思う。

求めている以上、欲している以上、いいところまでは至っても、最後には至らない。

求めている裏には手放すことへの恐れがあり、欲している裏には自己不信がある。

少なからずこの地球上には自分と同じ肉体を持った人はいない、以上、感じ方は違うのは当たり前で、そこが違えば思うことも考えることも判断も違ってくるのは必然。

なのに人がどう感じどう考えどう判断するか、考えてわかるのかと思うけど。

仮に考えたようにコントロールされている人たちがいるんであれば、逆手に取られているというわけで。

とにかく何事においても、際まで踏み込まないことには、真ん中は見えない。

旅の恥はかき捨て。人生も旅やとしたら、恥はかいといていいんじゃないかと思う。

ちなみにもう一つ言えば、旅で訪れた場所を「来た時よりも美しく」、と教わったのやけど、やとしたら、人生も生まれて死ぬまでの間に、この地球や環境を美しくしようとすることが肝要で、その過程において幸せなんじゃなかろうかと、逆に汚し穢しして、とならないよう、心したい今日この頃です。

Sol