At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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感覚の肯定

  • DATE : 2012.11.29
  • Cat : Sol

光や色は目で見るもの、音や振動は耳で聞くもの、となんの疑いもなく信じ切ってた20代後半まで。

それまでも器や盛り付けで味は変わるとか、また最後まで気を抜かずに音を立てずにとかお客さんの使い勝手のいいように置くとか、その辺は意識があったけど、それは祖父の教えやなんとなくそう思うという程度でしかなかったわけで。

その自分の中のなんとなくと、唯物的な世間とのギャップが大きくなってきて、どうも自分がおかしいのではないのか?と思うようになって、必死に答えを探すことになるわけです。

美しさとは何か、長らく本物と称され残ってきたものに共通することとはなにか。

そこから魯山人→白州正子→利休→禅→仏教・・・と更にいわゆるスピリチュアルな方向へハマっていくことになるわけです。

ちょっと余談ながら、小1の時に算数はいらんと思ってしまって以来、まったく勉強をしなかったのやけど、それは、リンゴ3コとミカン3コ合わせていくつ?という問題に対してアホらしいと思ったからなんやけど、それは足せんよな、という。リンゴとミカンをどないして足すのよ?子供を舐めたらアカンよねと。

ところが仏教に突っ込んでいくと、言葉で書いてあるのに、なぜそれがそうなるのか繋がらないわけです。いわゆる自身の数学的論理の欠如。

なぜ人を殺してはならないのか。これは倫理観の問題ではなく、数学的に解ける。他者の生きる権利を強制的に奪ったんであるなら、自身の生きる権利も喪失するということ。殺しておきながらやっていないとか、相手が殺されても仕方ない人間であったとか、そんなことは通じない。

人間の感情がどうであれ、プラスとマイナスでゼロというのは厳然とある事実。プラスを生じさせたければ、同時にマイナスも生じさせて初めて成立するということ。そのマイナスは見えないので往々にしてなかったことにされる=唯物的であるということ。

で、30歳くらいの時に1度目のキラキラに包まれるという経験が。最近、同じ経験を持つ人によく出会う。昨日までとなにも変わってないのに、この世界が一気に愛おしいものになる感覚。通りすがりのマンションのベランダに干してある洗濯物がどうしようもなく愛おしくて。とはいえそんな状態は長くは続かなかったけど、あの時強烈にわかったのは、「同じ人はいない」という事実。それまでもそんな当たり前のことは知ってたのやけど、わかってなかった。

同じ人がいない=諸行無常なわけで、これを解すると、比べるということができないということに気付くということ。

足の速さを比べることはできても、それは足の速さを比べてるのであって、人同士の比較ではない。

カール・ルイス(古っ)とワシとを比べて、そらカールのが足の速さでは優れてるのは言うまでもないけど、かといって人となった際に無条件に劣ってるとも思えない。少なからずインテリアや料理で彼に負ける気はしない。

自分とこの人とあの人の誰が優れているのか。そんなもんに答えはないです。仮に答えがあるということは自己卑下、唯物的であり、人と自分は同じだという前提に立っているということになるわけです。

相手が有名であるとか社会的地位があるとかの場合、相手の方が自分より優れている、と無意識で思い込んでて、だから目の前にすると萎縮してしまうということが起こるわけで。

有名であることが優れているんであれば、クーデターでも起こせば一気に有名になれるし、社会的地位が欲しければそのことに努力すればある程度は得れるとも思う、けど、そんなことになんの意味があるのか、ワシにはよくわからん。

佐治晴夫先生が仰った。

「国語の行き着く先は論理、数学の行き着く先は情緒です」。

いわゆる普通では逆を思う。

更に文理は不可分であると。

目や耳やを分けるのではなく、文理を分けるのではなく、分かれていると見えるものの統合点を見出すこと。

自身と他者は似て非なるものであるという前提であるからこそ、共通点を見出せるのであって、同じからスタートして差異しか見出せず、結果排他が起こっているというのが現在なんだろうと思うのです。

同じ人はいない。

だから自分の感覚が正しいも間違ってるもないのです。その感じ捉えたことがあなた自身であるということ。それを信じることが自分を信じるということで、即ち自信となる。

それを素直に表現した結果、超難解でなにがなんだかという映画を撮るゴダールなわけで、しかもなぜそんなに評価が高いのよ、ってことだと思うのです。

万人受け、わかりやすさを追い求めることがあってもいいとは思うけど、それはやっぱり妄想でしかないはずで、その結果、他者の評価が思うように得れなかったとしても、それは自信の欠如故なんだろうと思うのです。

*同じ人はいない、けど、人としては同じ、でもあります。

カレーを食べて辛いと感じるのは正常な人間の感覚ではあっても、どのくらい辛いと感じるのかは人それぞれということです。

Sol