限界を超える
- DATE : 2012.04.25
- Cat : Sol
またまたフラッと画伯。また絶景を垣間見せてくれた。話に引きずり込んで爆笑させてくれる術は他でも活かして欲しい、けど絶対に嫌らしい。画伯らしい。
画伯が30歳くらいの時、1970年代の頃、渋谷に面白い競馬の予想屋がいたらしい。黒山の人だかりの中、口上が始まる。
「ざっと見たところ君らはサラリーマンのようやが、2-3万の小遣いを5万に増やそうという競馬なわけやな?新聞読んで予想屋参考にして◎本命○対抗から流して確実に増やそう、というね。それを『本命取り』という。ただね、それがコケた時には、こうなる」
と実際に書いて見せるそう。本命がコケたということは、
『命取り』。
重要な示唆は、新聞を読めば絶対にトータルでは勝てんということ。別に新聞が嘘を書くわけではないけど、予想に前回のレースで3ハロンから左に縒れた(左にバタバタと失速しつつ流れて行く)なんて書かれてたら先ずは買わない。というかそんなもの買えない。かといってそんな馬が大穴で万馬券、なんて生み出す。データ主義で間違いないという道を選んだつもりが、コケたら最後、命取りな人生。画伯曰く、パっと開いた辞書がP48だったから4-8を買うとかの方が結局は当たったりすると。
で、その後予想屋と仲良くなった画伯、今月いくらの金がなかったら困る?と聞かれ、当時でいう10万と答えたところ、ではその5倍、確実なレースに賭けてみろと。血統からなにから徹底的に調べた上でやってみ?と。一体どんな気分がするものか。で画伯、その勝負を借金してまでやってみたらしい。50万1点買い。ゲートが開いてスタート、最初は調子良かったと。それが段々と首を上に向けてられなくなり、その内に立ってられなくなり、ゴールの瞬間はもう気っ分悪くてうずくまってて見てないと。結果勝ったそうやけど、全然嬉しくなかったと。負けてもいいと肚括って臨んだにも関わらず、その体たらく。
その足で予想屋のとこへ行って報告、どうやった?の問いに、勝つには勝ったけど、具合悪くなった・・・と答えたところ、そうだと。そんなもんだと。具合悪くなるもんだと。一度は味わっておいた方がいいと。
画伯、大勝負は体に悪いと。お前も1回やってみ?と。まぁやらんでもいいけど、そんなもんやということは知っとけ、と。
実際、年末の有馬記念ではぶっ倒れてる人がいてると。あーやりおったなと。倒れてるのは負けたからではなくて、レースの途中から調子悪くなって勝ってるにも関わらず倒れてるヤツもいてるんちゃうかと。年末の支払いが2,000万、今手元に500万、あとの1,500万算段つかず、有馬記念で一発大勝負。勝てば年越せ負ければ地獄。
競馬は全くやらないけど、競馬とはなにかは、宮本輝氏『優駿』によって知った。有馬の大勝負の下り、血統についてや騎手の心理戦等、競馬に興味なくても、競馬の魅力についてよくよくわかる。もちろん話としても面白い。映画ではなく、原作をオススメします。
麻雀での大勝負。その年代における余裕を持って遊べるレートがあったとして、例えば一晩3万の範囲での勝負、負けても痛いけど、まぁいいかという。そのレベルでありながら一晩で100万動く勝負をやってみ?と。全然アカンで、と。普段なら、七対子にいくのか、トイトイや三暗刻の可能性も、と冷静に、更にツモによって展開させていくという風に打っているにも関わらず、レートが上がった途端、もう真っ白、意味なくポンして、もうトイトイにしか持っていきようがなく、気付けば全部晒して手配は2枚、周りはリーチで切るに切れず、仮に上がってもトイトイのみ。なにをやってるのかと。通常のレートの際に、勝負!と危険牌を切る。度胸あるよねとなるけど、そんなもんは度胸でもなんでもないと。これ切って当たられたら取り返しつかないというところで勝負ができるか。オレは無理やったなと。手の平汗でビシャビシャやし、楽しいこともなんともないと。大勝負で勝つ!というのが快感だと思ってるのは、やったことない人間の単なる妄想なのかもしれん。
100億持ってる人にとっての1,000万の勝負なんて金額が大きいだけで大勝負でもなんでもない。そんな桁違いの世界のここだけの話も聞かせてもらったけど、そこだけの話ってことで。
例えばSMでMに興味があったとする。縛られてる姿見て興奮。そんな風にされてみたいと妄想。ならやってみ、と。そんなに思ってるほど楽なもんじゃないよ?みたいな。そもそもMだといいながら、それやって欲しい、これやって欲しいなんておかしな話でね。Mなんでしょ?と。なにを要求してるねんと。逆説的にいえば、人にこうして欲しいという欲求を持ってるからこそ、Mなんですよ、と。だって、こんなこと言うと、下品と思われるかな、変態と思われるかなと常々思ってるから自分の欲求をストレートに言うことができないわけで、だからそれを強制されることで口に出来る。酒を飲んで口説くのと大差ない。
人前で喋るなんて絶対無理と根拠なく信じてた。昔、FM東京の生に出させてもらった時、頭真っ白、最っ悪な思いをしてもう二度とゴメンと思ったのやけど、一応長男やし~いずれ親父の葬儀の挨拶もあるし~とえらいとこからも引っ張り出して、越えるべき壁、とKBSで毎月、それこそ(森谷威夫の)お世話になります!なわけやけど、決してナメてるわけではなく、起き抜けにそのまま飛び込む、くらい余裕が持ててたりする。事前になに喋ろうとか一切考えてない。そら相手があってのことやし、向こうは喋りのプロ(笑うことのプロでもある)やし、ってのもあるけど。
それこそ昔、人前で余裕で話すことができる人に、うらやましいと言ったら、違うで?と言われてなにがですの?となったのやけど、慣れやと。人前で緊張するのは当たり前のこと。慣れるしかない。と言われて、そっかと思った。ようやく慣れてきたんやろうと思う。人前で話すことに抵抗がなくなるほど慣れた頃にはきっと、人目なんて気にしない、ということにも慣れてるはず。
大勝負、SM、注目を浴びること。
そんなものに魅力と魔力を感じるということは、その分野に快感と興奮と恐怖と不安がないまぜになった感情を持っているということ。良いも悪いも善悪もない。このトラウマは過去世に由来するんではないかと最近思っているのやけど、その辺のことはまた別の機会に書くとして、往々にして人は中毒的にハマってしまうなにがしかを持ってしまっているものではいのかと思う。それだからこそ、その後抜けれなくなるかもしれないという思いや未知に対する不安があるのやろうけど、だからこそやってみること。そんな偏ったことでもなく、ま、恋愛で誰しもそんな思いは経験するのやろうけど。
本当に痛い目を見て、大恥かいて初めて、本当の意味での適当ということを思い知る。そういう意味でいえば出し尽くしたつもりでも、出し尽くしてなんかない。もう無理と思ってることを半強制的にでも超えることで出し尽くすどころか自分が自分でなくなることを味わうわけで、その結果、驚くようなギフトが目の前に現れたりもする。
人目が気になってるということは、それを気に出来る余裕があるということ。その時点で出し尽くしてることにはならない。そんなことを気にしてるということは、確実に100%の集中はあり得ないわけで。見られて興奮する、なんて言うてられるものはSMではない。それは恋愛の延長、アブノーマルなセックスに過ぎない。見られて興奮する、なんて余裕すらぶっ飛ばしたところにSMは成り立つのであって。
わかっているからこそ余力をもって取り組めるだけの話。限界を知るには、わからない領域に踏み込めるかどうか。その結果、限界だと思っていたものが限界ではなくなり、本当の限界を知ることができる。
勝つためには先ずは自分の分を知ること。
Sol