At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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悪人正機

  • DATE : 2012.04.17
  • Cat : Sol

養老孟司氏の著書に『無思想の発見』という新書がある。彼独特の読み手に考えさせるような書き方な上、自分の感覚と思考に対して日常的に意識的でないことにはなんのことかサッパリわからない、ということになるであろうことは想像につく。で、Amazonの書評をチラッと見たら、難しく書いてるだけ。てなのを見付けてビックリした。そんなレベルのものが書籍化されるわけがないでしょ。

これも自分は普通である、という無意識の思い込みによる弊害とみる。

だってそうでしょ、自分の読解力のなさ、自身に対する認識不足を棚に上げて、自分が理解できないから、わざと難しく書いてあるてな論理展開になるわけで。ではなくて、自分が書かれてる内容を理解した上で、それに対する反論なり批判なりがあるべきでしょ、と思う。そもそもAmazonの書評に匿名で口汚い批判を書き込むという行為はあまりよく理解できんけど。

自分が普通だと思うということは、自分は間違っていない、自分は正しい、と暗黙に信じてるということ。要は自分を中心に地球が回ってるという潜在意識がある、ということ。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。

浄土真宗の開祖・親鸞聖人の言葉。

善人が救われるのであれば、悪人こそ救われるのは当たり前の話。そんな無茶苦茶な話、通じません、というのが現在における普通。もう一度書きますが、悪人が救われるのであれば、もちろん善人ちゃんは救われますってのが現在における普通。

にもかかわらず、逆を言う。しかしながらこれこそが普遍的思想であり、本来の普通。

自分が悪人である、という認識がある人であるからこそ、善がなにかをわかるわけであり、自らを善人であると思っている人は、きっと多いに偏見を持っている、と思われる。

闇を知らずして、光に感謝はない。食うことに困ったことがない以上、心置きなく食えることを有り難いことだと思えないことに同じ。

善悪の基準をどこにおくのか、はちょっと横において、少なからず、借りたものを返さないとか、嘘をつく等の悪事を犯したことがない、という人には会ったことがない。ならば、この世に善人なんているのですか?という話。そのいないはずの善人であるのに、私は善人ですと言い切れる人が救われるのであれば、私は悪人ですと思えてる人の方を優先して救いたい、と仏でなくても思うはず。自らが多かれ少なかれ悪人であるにもかかわらず棚上げして善人である、と思い込んでるってことは、怖いと思うけど。そういうの、質悪いよね。

だからこそ、悪人こそが救われると考える。

ということは、ここでいう善悪を超えた善悪が存在している、ということになる。

この話、自分は普通であると思い込んでる人と同じ構造。

所詮今の世でいう普通なんてMaxで65億人が、という程度。2,500年前の釈迦の哲学が、2,000年前のキリストの教えが、今なお受け継がれてるということは、死んだ人も含むとどれだけの人に支持されたかということに思いを巡らせれば、今いう普通なんてただの偏見でしかない、ということが多々ある、と考える方が妥当。

そんな普通な善人だからこそ、うちの子に限って、なんてことを言えてしまったりするのだと思う。そこでこそ、うちの子なんやからそりゃ悪さの1つもするわいな、と構えることができる親に育てられたい、と思う。うちの子に限って、という言葉が出る前に、自身の行動を見直してみた方がいい。職場等において、陰口なんか言ってしまってる時点である種のイジメは発生してるわけで、そのことが子供にも影響を及ぼした結果、うちの子もイジメに加担してた、となってるわけで、陰口にも乗らず、ニコニコしている人の子息がそんなアホなことをするはずがない。

悪人であれ、ということではなく、少なからず自分が犯しているであろう罪に対しての認識はしつつ、悔い改めて普遍的な普通を解してその上を生きていけるようにもっていくこと、が大事なんであって、犯した罪を隠して善人面して生きていくことが大事なんではない。

自らを善人であると思い込むからこそ、罪に対して許せないわけで、自らが普通(現在における・平均的である)と思うからこそ、マイノリティを排除するということになってるわけで。


もう一度胸に手を当てて、自分は善人なのか、自分は平均的なのか、自身に問う時間を持った方がいいのかもね。


Sol