生きることの意味
- DATE : 2012.04.14
- Cat : Sol
生きることの意味がわからないのなら、その対立概念である死について考えてみればわかるのではないかと思う。忌の際で自分がやり残したことはあったにせよ面白かった、なり満足できる人生か、あの時こーしとけばよかった、あーってな人生か。
いつ死ぬのかなんてわからんけど、70-80歳まで生きるとして、いやいや、死ぬこと前提に満足を考えるんであるなら、次の瞬間死ぬ可能性も少なからずある以上、今の今、満足してないことには成り立たない、けど、そんな極端は追々として、先ずは、平均寿命まで生きれたとした際において、どうありたいか。
その満足が、自己において、の場合、そもそも平均寿命まで生きられるのかどうか。全うできたとしたらきっと、途中で大病でも患ったに違いない。世の中そう出来てる。
そういう意味で病とは、なにも善人を不幸に引きずり込むものではなく、善人が救われる以上、悪人が救われないはずがないという親鸞の言うことに一致する、ってことなんだと思う。
自分が悪人である、という認識がある人であるからこそ、善がなにかをわかるわけであり、自らを善人であると思っている人は、きっと多いに偏見を持っている、と思われる。
善とはなにか、を知っているということは、同時に悪とはなにか、と知っているということ。悪を知らずして、善を語られても、感覚としても味わいが薄い。
だからこそ、悪人こそが救われると考える。
ということは、ここでいう善悪を超えた善悪が存在している、ということになる。
同様に、生きる意味を考えるんであるなら、死を理解してこそ。そこにまたがるのは、命。
その貫かれる命なくして、継続も、伝達も、ない。人の1年なんて瞬きの間すら満たさない。
善悪を超えた善悪と同次元にあるであろう、命。
その次元での時間感覚から観れば、この次元においての普通はなんと焦っていることだろうと思う。
自分自身が変化していく環境に適応していくために変化をしていくこと。
放射能をこの世代で超えることができなかったとしても、超えることができるからこそ現れたのだと捉えて、自己免疫力を上げる努力をすること。
自己免疫力は、命の次元にあることで、自然と手に入れることができる。命の次元とは、愛の次元とも言い換えることができる。
その進化成長の過程を、自らが振り返ってよくやったといえる人生を幸せと呼ぶのだと思う。そこへ向かう人生であるなら、その過程も当然幸せなはずで、そこへ向かっていない、後悔をしながら死を迎えるであろう人生であるからこそ、今、幸せになりたい=不幸である、と思っているわけで。
意味をグダグダ考える前に、なにをしたいのか、なににワクワクするのか、とにかく夢中になれるものを見つけること。
見つけることも簡単じゃない。そもそも、夢中だと思ってたことが後で思うと半端でしかなかった、なんてことはよくある話で。
ま、人の世でいう善悪なんて、所詮ホトケの世界では手の平の上、と親鸞聖人もおっしゃってはるみたいやから、自分を悪人だと責めずに、悪人であると認められるからこそ真の善人であるということを理解して、堂々と往生できるよう精一杯生きてみる、というところに意味が生じるのかもね。
Sol