At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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number one≠only one?

  • DATE : 2012.04.12
  • Cat : Sol

マッキー作でスマップの歌う「世界に一つだけの花」。いい曲なんやけどね。売れたしね。

売れるということが単にそれだけ共感をされたことになるか否かはこのご時世よくわからんけど、ま、違和感がない人が多いんやろうなとは想像する。

この歌詞の、ナンバー1になれなくてもいい、元々特別なオンリー1という部分、養老孟司氏が、わざわざ元々特別なオンリー1ってなことを言わないといけない世の中になってしまったのかと猛烈に突っ込んではって、なるほどなと思った。

偉そうやけど、ワシの違和感はちょっと違う。そもそもオンリー1ならナンバー1でしょ、と。オンリー1やのに、ナンバー2やったら怖いしな。誰?みたいな。でも逆は成り立たない。ナンバー1だからといって、オンリー1とは限らない。同着1位で金メダル2人、ってことはある。この矛盾に気付けないことが現在の世の中の歪みを象徴してる、と思う。

オンリー1しかいない、からこそ、そもそも全員ナンバー1なんです、ってことが通じない世界ってどういうことよ?って思うけど、そのへん、どーですか?

個性とは、肉体に宿るもの。同じ顔も同じ体も、存在しない。街歩いてて似てる人はいたとしても、やっぱり他人の空似に過ぎないのは当たり前のこと。

オリジナリティとか言われても、所詮ワシなんかが思いつく程度のことなら、65億人もいたら同じことを思いつく人がいるのは当たり前。にも関わらずパクったとかって了見の狭いことを言う。でも、思いつきが同じなだけで、いざそれをカタチに起こすのは肉体を通してやる以上、その人なりの感性が加味されるのは当たり前のことで、その結果、見た目は似てたとしても、やっぱり非なるものとなる。それがわからんということは、表面しか見てないってことでしかない。

個性って言葉の辞書的な定義はよく知らんけど、一般通念としての定義は、育て伸ばすことができるもの、なわけです。だから教育機関や企業において、そんなことが叫ばれる。

でも、個性=個人的価値観、なわけでしょ、現在は。そんなもん伸ばされたらたまらん。

例えるなら、浜崎あゆみと宇多田ヒカルは好きやけど、中島美嘉は嫌い、とかってね。それって単にアンタの好き嫌いであって、そんなもんを価値観と言うなかれ、とワシは思う。それを価値観だと言い切る人に限って、バッハは知っていても、まともに聞いたことがなかったりするから驚く。

ちょっと待て、と。

別に浜崎あゆみも宇多田ヒカルも中島美嘉も好きでも嫌いでもないけど、そして貶す気もないけど、まぁどう考えても100年後、肖像画が音楽室に飾られることはまずあるまい。ま、これから次第で如何様にもなるやろうけど。

で、宇多田ヒカルが1stアルバムを750万枚売りました、ってすごい記録やけど、バッハの音楽は軽く億を超す人たちに聞き継がれてきたからこそ、現在に至ってるはずで、そこにある価値を理解できて初めて、価値観を語る資格が生じることになる。

宇多田ヒカルはじめ、歌謡曲等、聞きやすいんです、間違いなく。口ずさめ、カラオケで歌えば気持ちよく。それに引き換え、バッハなんて眠いだけ。ワシもそうやった。でもね、何事においても、残ってきたものっていうのは、好きか嫌いかなんて自分の物差しの外側にある、もっと大きな物差しにおいて、絶対に、と言い切るけど、いいからこそ、残ってきているってことは理解した方がいい。それを理解できないから理解しない、というのは、自分というものの枠の中で無難に生きようとしていることになるってこと。

そこで、前回にも引用した、ほとんどの人は「我がまま」つまり「個性的な自分のまま」だから、普遍的な思想に到達しない。by 養老孟司、となるわけで。

ここでいう普遍的思想に、バッハの音楽も含まれる。つまりは、自分、我がまま、個性的な自分のままの好き嫌いだけでの判断で、普遍的な価値を理解する努力はしたくない、ということ。

ちなみに、バッハの音楽になぜ普遍的価値があるのか。木内鶴彦氏の『生き方は星空が教えてくれる』という著書の中で、彗星探索家である著者が、天の川を見る度に頭に流れる旋律があって、ある時たまたま入ったCD屋で、まさしく天の川の旋律が聞こえてきて、店員にそれがなにかを問うたら、J.S.バッハ『チェンバロ協奏曲第2番』だったと。それは単に木内氏とバッハの感覚が一緒だっただけ、だとはワシには思えない。これを偶然だとするのなら、釈迦とキリストが500年違いでインドとイスラエルの土地の違いがあったにも関わらず、言い方こそ違え、結局は同じことを言っている、ということも偶然である、となってしまう。ではなくて、そこにあるのは、今の人間の感性の劣化によってわからなくなってるだけの、厳密にある普遍性、ということだと思う。

全ては移り変わる=諸行無常。

その中でも変わらないものとはなにか。

同じ人はいない、というのも、普遍的事実。

全ては移り変わる、ということは変わらない。

同じものは存在していない、から安心して、自分は既に個性的だと認め、その上で、その個性を超えて普遍的思想に至る道が、本当の意味での個性を伸ばす、という意味だと思う。

元々ある肉体に属する個性の中で判断してしまうことなく、その個性を有しているからこそできることがなにか。

極端になったら駄目だと思うけど、いい塩梅で生きていければなと思います。

というメールをもらった。

さて、それはどうやろ?
ワシは逆に思う。
例えば、平均を狙うというたところで、その平均は、全体の結果として導き出されるもので、この辺が平均だろうと思うのは、単なる自分の憶測、妄想でしかない。極端から極端へ、その両極を知ることで、初めて真ん中がわかる。それをせずに、いきなり真ん中狙ったとしても、それが真ん中かどうかどうやって検証する?他者から見た際にわかったとしても、少なからず本人にはわからんはずよね?それこそが無難ってこと。
両極を知る、とは、正に全体を把握すること。だからこそ、その中でどこを狙うのかがわかるのであって。

だからこそ、今の世の中、ズレてる。真ん中だと思ってることが、実はズレズレ。だってそうでしょ、目に見える世界だけを現実だと思ってる以上、そこでの真ん中は、かなりズレた位置にあるのは当たり前のこと。残念ながら、厳然と、目に見えない世界も存在してる。

オンリー1であるからこそ、同時にナンバー1であるからこそ、それを活かすことが個性を活かすことであって、オンリー1だと気付かずにナンバー1を目指そうとして、自分に宿るものを活かすことよりも、他者とは、世間とは違ったことをしようとして、往々にして行き詰まる。

個性とは、自分の肉体に宿る、その特性を指すのであって、アヴァンギャルドであることを個性的~と呼ぶことがあるけど、そんなもんは観念の世界でしかないでしょ、と思う。

あーまた長々と。

先にMeetsの原稿書けちゅうねん。

Sol