At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

BLOG ブログ

ツキとの付き合い方

  • DATE : 2012.04.12
  • Cat : Sol

京都に移り住んでから、ワシが勝手に師匠と思ってる画伯とよく遊んでもらってる。画伯については、『この骨董が、アナタです』(仲畑貴志著)に詳しい。

ちなみに、「この骨董が、アナタです」という言葉は、白洲正子さんによるもの。白洲さん曰く、仲畑さんが最後の数寄者とのこと。その仲畑さんが骨董を始める切っ掛けとなったのが、前出の画伯。

その画伯、以前会社務めをしていた時の取締役で、当時、カタログやカレンダーや紙袋の絵を描いたり、現在は、麻布(≠あざぶ、=あさぬの)の研究をしてはる。今は東京在住やけど、元々は京都出身。なので、大体月1で京都に来ては寄ってくれはって、なんだかんだと話を聞かせてもらう。

そもそも、骨董という世界についての扉を開いてくれたのも、画伯。

この日、画伯から骨董の真骨頂を聞かされて、思い切り骨董というものを捉え違えてたことが発覚。自分としては、如何に趣味のいいものを持っているのか、趣味の良さを見抜く眼を磨く、そんなとこと思ってたのやけど、奥の奥では壮絶な世界が繰り広げられていることを知った。久しぶりに怖い世界を垣間みた。その上で、自分なりの骨董の付き合い方でもいいのかもねと思いつつ、今後、骨董やってますとか、骨董好きです、というような浅はかなことは口にすまい、とも決めた。

この日、画伯もこちらも満月のせいもあってか、トップギアでの5時間、広範囲に渡って話は展開されたのやけど、結局一周まわって、だからそうなのか!なるほど!と、どっかの回路がパチンと音を立ててonになった気がする。

その一部。

ツキにノってる時は、基本なにをやっても、なにもしなくても、上手くいく。

ただ、その時の過ごし方によって、ツキの流れから外れた時の最悪具合がまるで違ったものになる。

基本、ズルやウソなんかの不正を犯さないことは当たり前として、ツイてる時こそ、断らないこと。

それはツイてることに対する否定になり、自らツキの流れから降りることを早めることになるってことになる。

そして、どうあがいてもツキの流れにノれない時は、グチャグチャにしてみること。

上手くいかない、と愚痴をこぼしながらも今までと同じやり方で復活を望むのではなく、大胆に全く違った方法を勇気を振り絞ってやってみること。

そのことでツキの流れが変わる。

この話、麻雀に例えつつ、これは人生にも適応すると言うてはったけど、改めて自分に当てはめて考えてみると正にその通り。

画伯曰く、普通の人はなんなく、良いこと悪いことが交互に来ると思ってる節がある気がしてならんと。でもそんな単純なもんじゃないってことは、自分の人生を振り返ればわかるはずやと。良いこと=○、悪いこと=×とすれば、○○○×○○×××××○××○○○○○、的にランダムで起こるもんやと。痛いほどわかります。そして、時に◎とかもあったりする、逆も然り。

実際、麻雀歴20年の中で2度だけ、鬼のようなツキに恵まれたことがある。配牌(最初の配られた自分の手)がいいのはもちろんのこと、そこから出来上がるであろう最高で最大の手まで、最短距離で出来上がっていく快感。そこまでツイてると怖くなったりするもの。でも今は、それを怖いことだと思うのはよそうと思ってる。その状況は有り難いはずなのに怖いって思うことは、そのツキの否定になるってこと。でも、それだけのツキに恵まれるということは、逆に、どうにもこうにも最悪の極みに陥る可能性もあるということで、だからこそ、ツキ過ぎると怖さを感じるのやろうけど。ま、逆パターンでそれこそ怖いくらいにダメな時もあって、99.999%大丈夫と思われる牌を切ったにも関わらず、ロン!ってなこともあって、そういう時って不思議とやっぱり・・・と思ってしまったりするもの。だったらもう今までの確率論や、自分の癖を横に置いて、ワケがわからん、ってな打ち方にシフトした方がいいってこと。

ツキ自体の流れというものは、本人の意思とは関係なく、厳密にそこにある。いわゆる運命。命を運ぶもの。ただ運は拓けるともよく目にするように、努力次第で逆らえないまでも味方につけ、最悪をちょい悪くらいに、ツキを最強にもっていくことは可能。

そのための基本は、偽らないこと。この歳になってくると人を騙すことなんて本当に簡単。下手すると、自分でも気付かぬままに騙してたりするから恐ろしい。どうであれ、他人は騙せても本人は、そしてその奥にあるなにものかは絶対に騙すことはできない。罪悪感を持ちたくなければ、偽ることをやめること。

では偽るとはどういうことか。

時間には3つある。時計時間と自分のリズムと自然のサイクル。この3つのうち、2つは厳然とあり、1つはただの概念でしかない。言わずもがな、時計時間は存在しない。

今、その存在しない時計時間のみを現実だと思い、自然のサイクルは否応なく潜在的に味わってたとしても、自分のリズムにはとんと無頓着、って人が多過ぎる。自分自身のリズムよりも、外側にある約束事でしかないものに合わせてしまってる時点で、自分を偽ってることになる。

自分の時間で生きてはる人から観れば、時計時間で生きてる人は自分よりも外側の基準を大事にしてしまってることが手に取るようにわかるわけで、そこに縁なんて生まれるはずがない。
自分のリズムで生きるからこそ、縁が生じ、自分のリズムで生きてる人と自然(ナチュラル&ネイチャー)と繋がれる。自然の動植物は自分のリズムで生きてるわけで、動植物に嫌われる人は時計時間で生きてることの証明となる。犬に吠えられ、植物にもすぐに枯れられるって人は心した方がいい。

ありもしないものを深く考えもせずあると信じ込んでるからこそ、自分が有名になることや自分がより多く持つことに価値があると信じ込んでるんやろうけど、そんなことは一部騙せたとしても、自分のリズムがわかってる人からは朝飯前で見抜かれる。

その骨董が、アナタです、とは、その時間感覚が、アナタです、とも置き換えられる。

ほとんどの人は「我がまま」つまり「個性的な自分のまま」だから、普遍的な思想に到達しない。

とは養老孟司の言葉。

個性的な自分のまま、という言葉に一瞬違和感を持ったけど、そのへんの説明は改めてするとして、この意味は、普遍的思想を理解するためには、遊ぶ時間を読書なりに充てる必要がある以上、少なからずそこでは我を捨てないことには成り立たないってこと。趣味の読書ではなく、学びとしての読書。考えながらでないと読めない類の本に自ずから向き合えるかどうか、ってことやと思う。
そして、普遍的思想を得ることで、全体に寄与することになるってこと。決して自分のためだけではない。そういうところで我を捨てれるかどうか。

このことは、最悪の時の処し方に通ずる。

どうにもこうにも、にっちもさっちもいかない、にも関わらず、それでも尚、自分のやり方なるものに固執する。現状を打破したいはずなのに、今までと同じやり方しかできない、ということは、厳しいけど、怠惰の極みということ。そこにあるのは、きっといわゆるプライド。

結局は他者の目が気になって、自分自身よりも、どう見られるかという、しかも他者が実際にどう見てるのかではなく、どう見られてるのかという自身の妄想の上において、気にしてるだけに過ぎない。

ツキとは、運命に属し、自分で拓くもの。一定の流れはあるこそすれ、偽らず、自らの特性を全体に寄与するように活かすことで、拓く。その自分の特性こそが、宿命であり使命。これは変えることはできず、自ら思い出し、気付くこと。

誰一人として意味なく生まれてきたはずはない。

自らを知り、自らを超えることで、自ずからツキを引き寄せることができる。

画伯、ありがとう。

また遊んでねー。

Sol