At Sol, one part of the wall is painted in magenta.
This color, discovered by Goethe, is a combination of red and violet,
which respectively are the lowest and highest colors of the visible spectrum.
Red is most heavy with long wavelengths signifying Roughness.
Violet is light with short wavelengths signifying Delicateness.
Hence, in Japan, violet is commonly used to represent the highest rank.
The words, “reason is formed by the height of culture and the height of animality” represent this ideology;
when the extremities of the vulgar and the refined exist, instead of combining both and diving it in half,
it is the intuition of going both directions simultaneously.
This is what is referred to as the Middle Way in Buddhism, meaning when exact opposites exist,
one does not take what is in the center but encloses them both.
Sol’s aim to synthesize the man-made, contemporary and western, with the natural, antique and eastern,
alludes to the meaning of the color magenta, which signifies a mixture of opposite colors.
Thus, magenta is the symbol of the Middle Way.

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割れないガラス

  • DATE : 2011.10.31
  • Cat : Sol

こないだ、友人のガラス作家と展示会の打ち合わせと称して、久々に長話。20代前半に知り合って、一時期一緒に住んだこともあった、のに、長らくの音信不通の時期があり、最近また距離が近くなった。それは物理的距離でもあり、心的な距離でもあり。

転職とか、引越とか、結婚とか、環境の変化で、え?って変化を人はみせるもの。あんだけ文化系やったのに、結婚後いきなりアウトドアに変更してた友人とか、だからどうってわけではないけど、遊び方が違ってしまって接点が見つけにくくなったりしたり。別に嫌いになるわけではないのやけど。

まぁ彼女とは紆余曲折があったものの、形的には元の鞘に収まった、けど、刀も鞘も元あったものとはすっかり違うものに変わってたという感じ。いずれかだけの変形では収めようがないのは当たり前の話。

さて、その話の中で出た、お客さんからの購入に際してのよくある質問。

「割れますか?」

爆笑。

つーか笑うしかないわな。

その話をすると友人たちは皆笑うと共に呆れるのやけど、だったら誰がその質問をしてるのよ???少なからずワシの周りにはそれに違和感あるようで、安心したけど。

ホンマにそんな質問あるの?と思ったので、Tweetしてみたら、別のガラスを使ったアクセサリー作家の友人が、やっぱり普通に、当たり前のように聞かれる、とのこと。

大丈夫か???

もうしつこ過ぎるけど、

「カレーって辛いですか?」

と、無意識で言葉を発するという点において同じよね。考えた上での発言だったら尚のこと怖いし。

あんまり意識せずに言葉を発することができるからこそ、物の扱いにも意識が薄くて壊しやすいんじゃないかと。

更に真意を読んでみる。

「割れますか?」

さすがに割れないガラスなんてものが存在してると思ってる人はいないと思うので、この場合、

「割れにくいですか?」

があるべき質問なはずで。

ちょっとスッキリ?

イヤ、待てよ。

割れやすいと割れにくい、その線引きはどこにあるよ?

それって、オシャレとダサい、金持ちと貧乏、幸せと不幸、勝ち組と負け組等に同じ。なにをもって誰が決めるというのか。

ガラスのことはわからんが、経験則では基本、強度は厚さに比例すると思う。

更に経験則で、どのくらいの力が加われば割れるのかも「自分の」感覚で掴むもんのはずで。にもかかわらず、

「こちらの商品は、Aの商品が加圧5で割れるのに対し、12までの強度があります。(当社比)」

というようなご親切ご丁寧な説明を欲してる、ということ?

でもこれって親切か?

ワシにはなんのこっちゃサッパリわからんけど。

その5やの12やのて、なんなのよ?そもそも1の加圧って基準値はどこに存在してるのよ?

はい結論です。(佐治先生風に)

割れる割れない、その基準を相手に求めることがそもそもおかしい、ということ。

割れることは前提にあり、だからこそ、丁寧に扱えばいいではないですか、ということでしかない。

それは作り手の問題ではなく、使い手の問題。

取り扱う時に、自分の体の動かし方に対して意識することが必要ということ。

ガラスが割れるのは、ガラスの持つ特性、個性。割れないガラスを求める行為は、ガラスの個性の否定ということになる。ガラスがガラスである以上、如何に分厚くしようとも、割れる時は割れる。

こないだ佐治先生が、人間は人間の都合のいいように自然環境をコントロールしようとするのに対し、白熊は自然環境に自らを合わせていったと仰った。いずれが正しいという話ではなく、2通りの選択肢があります、とも仰ったけど、この場合も同じで、割れやすいグラスを割れにくくしようとするのか、割れやすいグラスに扱う側が合わせていくのか。

前者のリクエストに応え続けた結果、繊細なものが影を潜め、大雑把なものが幅を利かすという今を迎えてるのではないか、と思う。同じく地球も自然環境が大きく破壊されていっている現在。

更に言えば、使いたいか使いたくないか、ではなく、割れやすいか割れにくいか、で選ぶということは、したいかしたくないか、ではなく、知名度や規模や福利厚生やで仕事を選ぶということと同じなのかもしれない。河井寛次郎の「物買って来る 自分買って来る」という言葉は、そのことを如実に物語ってる気がする。

繊細な物を大事に丁寧に扱う、その所作も品を表すと思ってる。そう思えば、残念ながら今この国の品位は劣化してると言わざるを得ないってことか。

そうそう、映画『初恋のきた道』(チャン・イーモウ監督)の中で、主人公が思い入れのある器を割ってしまって、それをその母が中国の直しの技法、鎹(かすがい)継ぎで直しに出してそっと水屋箪笥に置いておくというシーンがある。その母の思いに涙するシーンのはずが、その時の会場は爆笑してたのを思い出した。そういうことなんやろう。

日本人にとっての「花」とは「桜」を指す。

咲き誇った途端、風に舞散る様に儚さを思い、そこに諸行無常を見出した心はどこへいったよ?

「もののあはれ」はどこに置き忘れたよ?

西洋と出会う以前に日本人が本来持っていた、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです。とはアインシュタインの言葉。

壊れやすく繊細で美しいと感じたものに囲まれた生活と、強固で大雑把で自分の気持ちよりも条件に重きを置いた生活。後者に置ける人生の主人公とは、一体誰なのか。

それも時代の流れかもしれないとしたら、仕方ないかもしれないけど、自身の感覚を置き忘れた世界はきっと、殺伐としたものになるんじゃないかと思う。残念ではあるけど。