今こそ民藝
- DATE : 2011.09.24
- Cat : Event
念願の、この場所で寛次郎の器でお茶を頂く会。勝手な話やけど、どんな佇まいなのか見てみたいのだから仕方ない。通常、美術館や骨董屋でガラス越しに眺める機会がほとんどの中で、実際に手に取り、唇に押し当て、間近で見る体験は、今こそ必要な気がする。
京都に来たのは、京都の和菓子屋に詳しい人を紹介して欲しいと、『目の眼』の編集の方に相談したことを皮切りに、なぜか寛次郎のお孫さんにも繋がり、そうこうしているうちにこの都に抜き差しならなく?ではなく、魅力と魔力に呼ばれるように、という感じで。
鷺(寛次郎孫)さんに初めてご挨拶に伺った際、寛次郎の仏壇の前、寛次郎のコーヒーカップで、寛次郎の馴染みのお菓子を頂きつつ、寛次郎話を聞かせてもらった。
棟方志功にも影響を与えた寛次郎、その棟方のお孫(石井頼子)さんから聞いた、寛次郎と棟方のあれこれも面白い。
民藝って、田舎の蕎麦屋の、手作り至上、歪みは有機的、みたいなイメージを勝手に抱いてたけど、本質は禅。
でも、固定観念を打ち破ってたはずが、固定観念化されてしまった。無印良品が最早無印でないのと同じ。
「草非・人非・木非」
本人の書が、河井寛次郎記念館の2Fの床の間の軸にある。
草+人+木=茶。
三位一体で茶。
同時に、形骸化した茶に批判も込めてあるらしい。
「物買って来る 自分買って来る」
若しか自分以外のものを買って来た人があったなら、自分は其の人を見たい。
人はいふであらう。嫌だったけど仕方がなかったから買ったのだ。
こんなものは自分のものでも何でもないのだと。
然し其の人は仕方がないといふ自分以外の何を買って来たのであらう。
白洲正子が、「その器があなたです」みたいなことを言ってたと思う。
自分の選んだものに自分の心が反映される。
妥協して手に入れたということは、その前に自分に対しての偽りがある。
なんとなく選んだものに囲まれた生活は、なんとなく選んだ人生の結果。
人からの反応を気にするのは、自分の反応に気付くことに疎かになってるから。
「美しいものしかない みにくいものはまよひ」
迷うのはエゴに惑わされるから。
迷+惑=迷惑。
醜いかもね。
「井の中の蛙 天を知る」
井の中の蛙大海を知らず、が本来。
世間知らず、視野が狭い等、ネガティブな意。
登り窯の火入れの職人の微妙な温度調整の肌感覚に対する敬意、精通することの尊さを述べたらしい。
お菓子でも粉100g水100ccを混ぜるというレシピがあったとしても、それは通年では成り立たない。梅雨と真冬では、水の量が微妙であれ差が生じる。
毎日同じ状態に仕上げたければ、その気候変化に作り手の方が対応していく必要がある。
それを今は、気候変化の方を少なくすることで、同じレシピで通年利用できるようにしようとして、無理が出てきた?
一定を作り出そうとするのではなく、差異に対応していくことが、真の進化なのかもしれない。
諸行無常。
島根・松江は、京都、金沢と並んでお茶が盛んで銘菓多し。安来は煎茶や番茶を飲むように、自分で点てて、その辺のお菓子で一服するらしい。
鷺さん所有の10客のお茶碗と、番茶茶碗、菓子器、寛次郎が好きだったお菓子と、Sol所縁のお菓子、おかき・あられなんかで約2時間、寛次郎について、民藝とは、禅って?をざっくばらんに。河井寛次郎記念館チケット付き!との申し出。
なにが本物かわからないけど、高い精神性に裏打ちされたものや人間が作り出せないものに触れる時間は、意識して持った方がいいのかも。
日時等はこちらより。
Sol