日本的なことって?
- DATE : 2010.10.13
- Cat : chezの独り言
この間、嵐山の商工会的なところで中国人観光客に対する対応を協議したって話を聞いた。
なにがあったのか。
商品の包みを無許可で開けることが多発。なぜそんなことが起こるのかというと中国では店頭にはサンプルしか置かないらしく、だからそれ前提に中を見るのは当然ということらしい。なぜ店頭に置かないか?
盗られるから。
あり得ないって、って思ったけど、京都の方は大人で、そんなこと言っても仕方ないから日本と中国の常識の違いを説いていくしかないと言われてた。
もう1つ。
飲食店で中国人団体客の来店、が、オーダーは1人のみ。
はぁーあり得ん。
でもこれ、なにも今、中国人だから起こった問題ではない。かつて吉祥寺でお店やってた時に日本人の若い子達に同様の行動ををとられたことがある。
5人で来て、1人だけオーダーで、他は水でって。そんなこと初めてやったし、最初なにを言ってるのかわからなかった。
オーダー頂きたいんですけどとの問いに、なぜ?との返答。
・・・もう無理。
なぜそんなことになってるのか、なぜそんなことが言えるのか、そこでなんて答えればいいのか、なにが正しいのか。
それらに対して自分なりの答えを持ちたくて、山の中での3年間という時間。
祖父にすごくかわいがってもらった。幼少期からよく京都や奈良にくっついていった。
神社仏閣の参拝の仕方、仏像の配列、意味。
物の食べ方、オーダーの仕方、器の扱い。
焼き物の窯による特徴や相撲の面白さや気遣いとはなにか、いろんなことを遊ぶように教えてくれた。
正座は当たり前、よくお坊さんの話を2時間正座で聞いて褒められた。不思議としびれなかったけど、あれは慣れかな。今は無理やけど。
百人一首は基礎素養として、また花札の勝ち方のコツ等々。キリがないのでこのへんで。ちなみに花札は1月が松で月ごとに草木があてがわれて12種あるのやけど、12月には関係のないキリがなぜか12月。それはピンからキリまでの掛詞的になってるらしい。面白い。
さて少し戻って、食べること。
例えば寿司屋に行ったら最初に生姜を食べろと。添え物にまで手を抜かない店は間違いないと。そしてガリ(生姜)、ムラサキ(醤油)、アガリ(お茶)等、知ってる分にはいいけど、職人言葉を素人が使うなと。さらに余談で、ショウガ、ショウユ等、冒頭にシがつく言葉は死と繋がるから、という理由で、らしい。茶はなんで?
ましてやオアイソ(お会計)は禁句と。そらそうだ、なぜ客がお店に対してお愛想してなんて言えるのか、厚かましいちゃありゃしないわな。
初めて行く蕎麦屋ではざるを、うどん屋では釜揚げを、とも教えられた。誤摩化しがきかないシンプルなものでこそ、その店の実力が量れるからと。
また、高島屋で買い物をして、大丸でも買い物となった場合、高島屋の紙袋をわざわざコンロッカーに入れて大丸に向かう祖父母。それは彼らの世代では常識だったよう。なぜそんな面倒臭いことを?人間、表に出そうが出さまいが多少なりとも嫉妬するもの。下手な競争心煽る必要はなく、それぞれを立てるという心遣いということらしい。もちろんそこに賛否はあっていい。ただ自分としてはいい風習だと思う。というか、それが自らの常識になっていた。
寿司屋が死を嫌い、またお会計という生々しさをお愛想してあげてという言葉に代えての気遣い、それに客側も、お店を立てるという気遣い、双方向にあった。
気遣いとは基本的に権利ではなく、義務に属すると思う。だってそんなこと面倒臭いもん。
そう、今この国には、公の概念と義務感が欠落してる。
私(プライベート)と公(パブリック)の線引きは、家の内外にあると思っている。家の中では好きにすればいいけど、一歩外に出ればそこはもう公だと思ってる。
でもお店やってた時に、なんかそれはこちらの常識で、もちろん共有できる多くの方もおられるけど、そうじゃなくなってる感も同時にあった。
多分そうじゃない方の常識は会社が公で、それ以外は私なんじゃないかと。
電車の化粧のおかしさってあそこは公の場だからでしょ。素顔から化粧顔に移行する場面を公に曝すことの意味がわからない。自分の好きな人、自分をよく思ってもらいたい相手に対して、また自分に利益をもたらせてくれるものに対しての化粧、なんですよね?それ以外の見ず知らずの人に対してはどーでもいいってことなんじゃないの?と思う。
公が狭過ぎてだから義務感が欠如し、そこを出た私の場面では権利の主張が激しさを増す。
以下引用。
憲法12条:この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によつて,これを保持しなければならない。又,国民は,これを濫用してはならないのであつて,常に「公共の福祉」のためにこれを利用する責任を負ふ。
憲法13条:すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,「公共の福祉」に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。
はぁ頭痛くなるこの言い回し。その修正だけでもすりゃいいのに。
さて。
わざわざカギ括弧を付けたけど、この「公共の福祉」ってのが曲者。
「公共の福祉」のために自由と権利を利用する責任?
全ての国民は「公共の福祉」に反しない限り、個人として尊重される?
多くの国民は、自分も含め憲法を犯してるってことでしょうか。
この解釈は突っ込みどころ満載?
ついでなんでもう1つ、前文より。
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
「平和を愛する諸国民の公正と信義」はお隣の大国にはない。
「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」チベットやウイグルに対してまともな報道すらなされない現状はどういうこと?
「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」残念ながら確認できません。
9条はこれから議論すればいいけど、てほど時間もないけど、3章と全文に関しては改憲しませんか?
今、公の観念は個人に属してしまってる。自分の周りの人間関係なのか、住む地域なのか、国なのか、地球なのか、宇宙なのか。先ずは公とは何か、そこを再定義して、再教育する必要があると思う。
だから今、仕事は私のためになってしまってる。働くとは人のために動くということ。それは前提に公が存在してるからこそ。公がなくなってる今、働く意味がわからなくて当然。だからこそ、自信がないっていう若者が増える。自信とは自らを信じると書く。信じるべき自分がわからないから自信がないわけで、その自分とは誰かと問われれば、そのルーツを探ることで見えてくるはずだと思う。そのルーツから断絶されているから自信がないのではないのか?
自信がないなんて言うてる暇があるのなら、そのルーツ、知ろうよ。
教えてもらえることを権利だと主張したところで、誰もそんな暇じゃない。学ぶことは義務です。その義務を果たさずして自信を持ちたいなんて、そんなに甘くはない。でも結局は無意識下に権利という意識があるから、自信がないんですぅと堂々と言えるんだと思う。それ、恥ずかしいことだといい加減言うておきます。
個性なんて考えなくてもいい。自信が持てた頃には自ずと個性は発揮されてます。
この国の文化は面白い。
余白残した絵画、ボロッボロの三畳の空間での茶の作法、歪んだ器、非対称の空間構成。そんな物を良しとした国や民族はそうそうない。
愛国心?そんな曖昧模糊としたものではなく、日本的美意識とはなにかを知れば、自ずとこの国が好きになるでしょ。好きにならなくてもいいからせめて興味・関心は持って欲しいなと思うのです。
結局その私の努力が、公に役立つことになる、そう思います。