可聴・不可聴・可視・不可視
- DATE : 2010.06.21
- Cat : chezの独り言
周波としては光も音も同じ。可視光線以外の紫外、赤外は人に見えないし、可聴域以外の音は人間には聞こえない。でも間違いなくそれらは存在する。
光と音では光の方が周波数が高くて、その域を認識する装置が目で、もっと低い域をキャッチするのが耳。
目を通せば見えるという感覚で、耳を通せば聞こえるという認識なだけで、実は光りにも音はあり、音にも色がある。
光が聞こえるし、音が見えるということ。
残念ながら人間の肉体ではそれが不可能なだけで、でも肉体を脱したところではそういうことになる。
美しいとはなにか。
可聴域以外までもを作曲されている音楽が素晴らしいんじゃないのか?
可視光線以外の色彩までもを描いてあるから心揺さぶられるんじゃないのか?
音に光を与え、光に音を与えることができているんじゃないかということ。
だとしたら音を聞くときは観る必要があり、絵を見るときは聴く必要がある、ということになるんじゃないかと思う。
一流とは肉体的限界を凌駕したところにあるから一流で、それを認識できた人のみが一流のものを創ることができる、と思ってる。
今の社会システム自体が、肉体の内部の、可視可聴だけを現実として捉えることで成り立ってて、だから不可視不可聴は必要ない、合理的ではない、効率化のため、と切り捨てる。
アナログレコードからデジタルCDに移行する際、アナログには含まれていた不可聴域の部分を排除した。その方がデータ容量が増えるからという理由で。他にも意図があるかもしれんけど。
CDにもメロディやハーモニーやリズム、実際の可聴域で構成されてるわけやから、耳としては同じものキャッチするけど、実はその切り捨てられた不可聴域がすごく重要なんだと思う。
そして、その不可の部分を容認することが余裕で、そこが本質的な豊かさなんだと思う。
それをどうやって取り戻すことができるのか。
自然とは、見るではなく、観る行為、聞くではなく、聴く行為。
そう思えば今の世の中がどれだけ不自然かと思う。
不可視不可聴を無駄と切り捨てたことで、人間が美しいヴァイブから切り離され、恐れを抱くんじゃないのか?
世界とは可視可聴だけで成り立ってるわけではないのに、同量、もしくはもっと広く大きな不可視不可聴の領域があるのに、前者だけを世界と思って、そこでの安定やそこでのバランスを考えてバランスを崩す。
その可も不可も合わせた全体でバランスした時、普遍的な安定があって、それを平和と呼ぶのだと思う。
言葉って難しい。
肉体的に認識の限界があるように、言葉にもその限界があって、乗り切らない部分が多々。
でもまぁ読むって行為も文字面を追うことではなくって、その意図を読むってことやから、ここにも不可領域が存在してるってことになる。
想像や感覚なくして生きてはいけないのに、なんだか論理と理性が優先される。
とかいいながら、論理で文章書いてるわけやけど。