正直なところ
- DATE : 2010.05.07
- Cat : chezの独り言
「民主党の山岡賢次国対委員長が6日、党本部で開かれた『女性議員ネットワーク会議』で、米軍普天間飛行場移設問題を『直接国民の生活に影響していない』と発言し、沖縄県の民主党市議から抗議を受けて謝罪する一幕があった。山岡氏は、普天間問題に絡んで審議拒否を示唆する自民党を批判する中で発言。『地方に行くと、普天間は何か雲の上のお話で、子ども手当は自分たちの生活の話という思いもある』とも述べた。これに対し、会場にいた伊敷郁子糸満市議が『私たちにとって生活を破壊される大きな問題。今の言い方は県民を冒涜(ぼうとく)している』と反発した。山岡氏は『法案ではないことで(自民党が)審議拒否をするのはおかしいという意味で申し上げた。誤解を与えたなら申し訳ない』と発言を即座に撤回し、謝罪した。」
今朝の東京新聞より。
これ読んでちょっとハッとした。
確かに「直接国民の生活に影響しない」ってのはおかしい。沖縄県民や徳之島の住民は国民ではないのか、という話になる。でも「地方に行くと、普天間は何か雲の上のお話で」ってのは、実のところそうかもしれない。
政治家として不用意な発言だったかもしれないし、当事者にとっちゃ聞き捨てならないことには違いないと思うけど、山岡氏だけではなく、「雲の上のお話で」終わらせている地方も抗議されるべきじゃないのか、と思った。その抗議される対象に自分も含まれる。
そんな中、
「沖縄県民として、総理を批判する気には私はなれない。自民政権では沖縄の苦しみは覆い隠され、顧みられることなく全て政府が決めてきた。初めて、沖縄の声に耳を傾けたのが現政権。沖縄の現状も知らずに簡単に嘘つき呼ばわりしないでいただきたい。」
twitter上でこんな発言が。
もちろん、これが沖縄県民の総意とは限らないけど、なるほど、と思う。
沖縄に未訪で、友人知人もなく、基地移設にも関係ない地域で日常を過ごしている人間にとって、実のところなにがなんだかよくわからないってのが正直なところ。でもそれはどっちでもいいとか、どーでもいいとか、そうではなくって、どうすればいいのかがよくわかっていないって意味。きっと本質的な理解には、歴史を学び直す必要がある気がする。
そもそも、基地が必要なのか?からもう一度議論し直されるべきで、必要だとの判断であるならどこかになきゃならないわけで、そうなった場合、誰かがどこかが負担しなければならなくなるわけで。それが沖縄にあったからこれからも沖縄でいいんじゃないのってのは甘え過ぎよね。
これ、次元が違うと怒られるかもしれんけど、葬儀場とか斎場とかの建設反対ってことに似てる気がする。人は必ず死ぬ。その後葬儀して火葬する、その風習自体が変わるのならわからんでもないけど、現段階では必要なのに、でも誰もそれが自分の近所にあることを望まない。
首相に難ありってのは否定はしないけど、普天間に対しての発言の2転3転を批判するのなら、どうあるべきかを明示してからじゃないの?と思う。
少なからず自分には無理。
結局、どうあるべきか、ではなく、どうなるの?とこの問題を傍観してしまってる。
そしてこんなレポートが。「米軍に普天間基地の代替施設は必要ない!日本は結束して無条件の閉鎖を求めよ」。
日々の生活って忙しい。稼ぐ必要があって、食事する必要があって、寝る必要があって、人付き合いも、ストレス発散も。そんな目先のことに追われてるうちに、この国は膨大な借金を抱えてる。
塩素入りの水を飲み、化学調味料や人工添加物の入った食物を食べ、免疫力が落ちて病に罹り、副作用のある薬を飲む。そのお金はどこに流れているのか。
昨日、「どっちでもいいってことってあるよね?」って聞かれた。確かにある。でもそこで注意しないといけないのは、どっちでもいいっていうのは、自分では決めないと決めてるってことだということ。具体的に言えば、「ご飯なに食べる?」となった時に、「なんでもいいよ」って返ってきた、「じゃトンカツは?」と言えば、「それはイヤ」みたいなこと。これっておかしい。なんでもよくないやんけっ。
何度も書いたけど、マザー・テレサの「愛の反対は憎しみではなく、無関心」って言葉、よくよく噛み砕いてみると、憎しみも関心であるってことで、その憎しみを抱く対象にも愛があるということになると思ってる。例えば寂しいのが嫌だという思い。嫌だと思ったところで寂しさがなくなるわけじゃない以上、嫌だと思うエネルギーほど無駄なものはない。感情的に嫌だと思うのは当然のことで、でもそれとは別のところで寂しさは抱えなければならないわけで、それなら寂しさを感じた時点で、即嫌だと思うところにちょっと猶予をもって、今寂しさを感じてるんだと感じればいいんだと思う。それが自分を客観的に観るってことなんじゃないかと思う。
そういう意味で言えば、どうでもいい、どっちでもいい、なんでもいいっていうのが、無関心ってことだと思う。思考停止って言ってもいいのかもしれないけど。
トンカツはイヤなのに、なんでもいいって言えることは、自分に対して無関心=自分に対しての愛の欠如ってことになる。だからこそ、他者から自分に向けて関心を持ってもらいたい=愛を求めることになる。
自分にはなにが似合うか、体は今なにを欲しているのか、そんな自分の声を聴きながら実現させていってる人と、なんでもいいかってテキトーに過ごす人とどっちが魅力的かって話かなと思う。前者は自分に対して愛情豊かなわけで、そんな人だからこそ魅力的に映るし、愛されるんだと思う。もちろんそれをウザいとか言いながら嫉妬する人も世の中にはいるけど。でもそれは嫉妬させるあの人に非があるってことのようでいて、実は嫉妬してるのは自分でしかないんやけど。
関心はある・なしではなく、持つ・待たないなんじゃないかと思う。
関心がないのは自分。関心がないから関心がないんですってなんだかおかしな話で、関心を持つためにはきっと努力が必要。その努力を放棄して無関心で過ごしていたのに、いざ自分に不利益が生じるとなった時初めて不平を言うことはやっぱりおかしい。
愛国心と言えばナショナリズムみたいななんだか怪しい方向になるけど、その内容は、この国を愛するっていうことではなくって、自分さえよければっていう考えより、人を喜ばせようとするその有り様、それはこの国だけではないけど、この国が大切にしてきた価値で、それをこれからも踏襲しませんかっていう意味として捉えれば辻褄が合う気がしてる。
普天間の問題から、まぁ今に始まったことじゃないけど、安全保障の問題とか、憲法の問題とか、歴史認識の問題とかがより浮き彫りになったと思う。
自信がないなんて卑屈なことを口にする前に、自分の頭と目と耳で歴史や文化を学び直すことが大事な気がする。
その上で、どうあるべきか考えてみたいと思う。