個と全体
- DATE : 2010.04.30
- Cat : chezの独り言
BRUTUS発売されたので、以前の『お預け』の続き。
何度か書いたし、近しい人からはもういいってって言われるけど、やっぱり「カレーは辛い?」問題。ホンマに日々聞かれた。うんざりするくらい問われた。
「カレーって辛いですか?」
これは、
1.「カレーという食べ物は辛いものでしょうか?」
2.「こちらのカレーは、世間一般と比べて辛いのでしょうか?」
3.「こちらのカレーは、ワタシにとって辛く感じるものでしょうか?」
と読み取れる。
1に対しては、辛いです。以上。
2に対して。これ、答えれる人っていてるのかなぁ。世間一般?マスってこと?
3に対して。知らんって。アナタの舌とワシの舌は違います。
ここから少し鬱陶しいので、読み飛ばしてもらって結構です。
今日本でカレーを知らない人はいてないでしょ。カレーは辛いのです。カレーの定義はなんやねんって話。また日本のそれとインドのそれは少々違うみたいでその辺がややこしかったりするけど、カレーは辛いのです。それがどのように、どのくらい辛いのか、はまた別の話になってくる。
そこで世間一般と比べて辛いか否か、ってことになる。それって当時のスタッフに、万人受けするものを考える、と言われてそんな無茶を言うなとたしなめたことがあるのやけど、どういうことかといえば、万人って全てのってことでしょ。ロシア人、インド人、日本人、まぁどこでもいいけど、全人類が好むもの・・・存在するか否かは別にして、それって計測したことあんのかよ?って話なんよね。ワシは世間一般の辛さの基準が存在してるとは思ってない。それに沿ってうちのカレーはどこに位置するのかって聞かれても、申し訳ない、わからないとしか言えない。そこまで厳密なことではなく、己の経験則からどこに位置するかを聞かせて欲しい、その気持ちもよくわかるけど、ワシ、そないにカレーの食べ歩きしてないから、それを基準にされる違和感がやっぱりある。
さらに、ワタシにとって辛いでしょうか?なんてもうなにがなんだか。知りませんし、知れませんし。転校生でもあるまいし、入れ替われたなら感じることができるかもしれんけど、そんな無茶言われても、ねぇ。
世間一般=マスと捉えたとして、多数派、普通、そんなことになるのかもしれんけど、それがなんなのか、よくわからんのです。それは自分がマイノリティとして過ごした時間が長かったからってのが大いに影響してると思ってる。普通扱いされてない部分を持って奇異の目を向けられた経験ある者にとって、自分の中の普通は考えるまでもないことやけど、世間一般、普通ってことへの理解は難易度が高い。でも実は、それって皆が経験したことじゃないの?奇異の目を向けられたかどうかは別にしても、誰もマイノリティの部分は持ってるでしょ。それがコンプレックスやったりすると思うけど。
そもそも多数派なんてものは前提に位置しない。平均点って結果でしか計れないというか、結果でしかないのに、なぜそれがあたかも前提であるかのように扱われるのか、そこを言いたいのやけど、その話が通じなくて、頭抱えた。
普通の辛さってなに?
また別に、自分が思っている、耐えられる以上の辛さで、残すはめになったら損した気分、だから確実にオッケーであるなら食べてみる、そんな思いも読み取れる。てか本意はそこにある、と思ってる。要は失敗したくないってこと。それもわかるけど、失敗ってなによ?って思う。
別の例えでいえば、生麩饅頭の件。
「生麩ってなんですか?」
よー聞かれた。
これはわかりやすく、食べたことありませんってこと。なので一応説明はします。
・焼き麩の生
・小麦のグルテン
・独特の食感
質問に対しての答としては間違ってはないと思うけど、求められてる答えにはなってない。だって、それでイメージつく?つくはずない。未経験の事柄へは説明も説明ではなくなる。百聞は一見に如かず。それってtwitterってなに?って質問と似てて、言葉は尽くすけど、やっぱやらんとわからんよねってのと一緒で、とにかく食べてみたら?って思う。
この際、好き嫌いは横に置いて、自分に経験をさせることができるかどうかが優位じゃないの?って思う。それはワシの価値観でしかないのかもしれんけど。食べてみて好きじゃなくても、それは自分が好きではないだけで、否定に値することではないし、そもそも食べてみたってその経験が貴重。ちなみにワシの場合、一度食べて好きじゃなかっても、よそには美味しい生麩はないものか、探す。
失敗とは思い通りにことが運ばなかったことを指すんじゃなくって、やらなかったことを指すのやと思ってる。
「君は、自分の墓に、『リスクを怖がって何の失敗もせずに、退屈な一生をおくった惨めな男ここに眠る』と書かれたいのか?」from twitter hondakenbotより引用。
この世に同じものは存在しない。大量生産されたものとて、同じものではない。ましてや同じ人間はいない。その前提が通じないことが多い。
「同じ」とは概念でしか存在し得ない。
「同じ」からスタートするから混乱が生じる。
「違い」からスタートするからこそ、共感や理解に至るのだと思う。
「カレーは辛いか?」
その問い掛けをする人の多くは、他者と自分は同じである、という前提に立ってるという結論。もちろん本人は、そんな意識もないと思うけど、無意識では確実にそう思ってる。その無意識を意識することが必要。
だから人と自分を比べられるなんて錯覚が生じるし、実際比べて優劣つけて一喜一憂してしまうという愚行を犯すことになる。
そのくせ、あの人は特別、とこっちとあっちは分けられると思ってたりもして。
世界とはなにか。
目の見える人と見えない人、生麩を食べたことがある人とない人、インターネットが日常にある人と拒絶して未経験の人、海外経験の有無、それぞれでの世界は違う。世界は1つ、確かにそう。でもね、パラレルでもあるのです。
だから理解されることが当然なのではなく、理解してもらうことが重要で、理解しようとすることが最重要になる。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です。」(マザー・テレサ)ということは、愛とは関心を持つこと。憎しみに憎しみで返すのではなく、なぜ憎しみを持つのか、関心を持って理解しようとすることが、愛なんでしょ、きっと。
地球は1つやけど、そこにいてる人達はいろいろで、なんのメディアか、どのクライアントかで見てる世界が違うということが加速度的に進んでる気がする。なにが正しいのかなんてわからんからこそ、自分はなにを正しいとするのか、できるだけ真実に近い部分で持ってたいと思う。なにを辛いと感じるのか、ちゃんと自分の感覚なり癖を認識してたいと思う。
人がなにを感じてるのかを感じ取る能力も大事やけど、自分がなにを感じてるのかが疎かになってはバランスが悪いと思う。
木だけではなく、森だけではなく、木を見て森を見る。
また森っていうのがなんだか漠然としてて微妙な感じやけど。