全てはアナタ次第
- DATE : 2008.09.15
- Cat : chezの独り言
『Toco』の掃除、ワックス掛けなんかをした午後。
向かいの散髪屋のおばあちゃんがかわいくて、駐車場もどうぞどうぞと使わせてくれはって、みんなお店できるの楽しみにしてるんですよ、とか言うてくれはったり、裏の家のおっちゃんも、無愛想装いつつ、なんやかんやと気に掛けてくれはったりと、なんだかとても恵まれた環境。
こんなおばあちゃんやおっちゃんが、しょっちゅうお店に遊びに来て、縁側でお茶でもしてくれてはったらいい感じやねんけどね。
夜、福中から什器の納品。購入時の納品日時を決める段で、閉店後に来てもらって、うちでご飯食べてくってのはどう?と言うてみたら、二つ返事でいいんですかーみたいな反応で、そういう無駄な遠慮のない感じって好きなんやけど、が実現。
豚バラと牛蒡の炒め煮、冬瓜と桜えびのスープ、漬け物各種、なご飯。baco先生作。久々ご飯3杯も食べてもうた。
福中からは、店長とバイトちゃんが2人で来てくれたんやけど、そもそもからいい感じやなーと思ってた通り、オモロいのです、2人とも。ハッキリしてる。
『Floor』時代にホントよく、オススメどれですかって聞かれたんやけど、ま、オススメできひんようなもんはメニューに載せるわけないのやけど、そこが先ず通じなくて、結局お客さんが聞きたかったオススメとは、オススメではなく、どれが一番人気か、どれが一番出てるのか、やったんですね。不思議な話ですけど。
オススメするってことは、最近入荷した珍しいお茶、とか、今が旬、とか、場合によっちゃ賞味期限ギリギリなので売りたいからオススメ!なんて場合もあるやろうけど、そんな店側の都合と、お客さんの気分、体調、好みを伺った上で、一番合うであろうものをオススメするって場合との2つが考えられると思うんです。それがオススメ。
よくあった、オススメと呼んでいるそれ、一番人気、言うなれば多数派でありたいという願望は、主体性のなさの現れなわけです。
具体的に、例えば100人中99人が美味しいと言うたところで、ワシはそうでもないなーってことはある、それは極端か、ま、半数以上が美味しいと言おうが、ワシはそう思いませんってことって多いにあるわけやもん、逆も然り、どれが1番出てるかってのは、ある種の基準にするのはわかるけど、じゃそれで、と即答できてしまうことは怖いことやと思ってるのやけど、どーですか?
自分がどう感じ、どう思うか、よりも、世間がなにを良しとするか、の方が重要になってるという怖さ。そのおかしさをおかしいとすら感じていない人に、それを伝えることのまた難しいこと。
それはもう素晴らしい学校教育の賜物ですわな。
そこに逆折伏の必要を多いに感じるわけです。なので理を料るという意味でのサロン・ド★ピンクなんですけどね。
なんて話で大盛り上がり。
古道具にしても、これどうやって使うんですか?とか聞かれるわけですよ。例えばボールがあったとして、そんなもん、花活けようが、料理盛ろうが、灰皿にしようが、頭に被ろうが、お好きにどーぞなわけやけども、いちいち正解を求めたがるわけで、その姿勢ってやっぱおかしいと思うわけですよ。
世の中がどうであるか、他者はどうなのか、それを考慮することは、社会に生きる上で絶対的に必要でしょう。でもそれ以前に、自分個人としての存在がないことには、その個人に社会は存在しようがないわけで、意味わかる?死んでたら世界も社会もあるわけないってことね、だから、同時に、私はどうなのか、それも多いに必要でしょう。その欠落が、個人より社会や他者の方が大き過ぎるから、おかしなことになってる、と思うんです。だから自信がないって言えてしまうわけでしょ。
もういい加減、世間でダサいとされてようが、好きなら好きと言えばいい。それが個性。そしてそれを堂々と言える人間に、魅力が宿ると思うんです。
真面目ないい人より、アイツおかしいんちゃうって言われるヤツの方が、オモロいって。比べることでもないけど。もちろんおかしさのベクトルは、破壊的方向ではなく、創造的方向で、やけど。
私はこう思う、で、アンタはどーなの?世の中はどーなの?それが健全な気がします。
今の多くは、世間はどうだから、私もそう、なわけでしょ。それ、ホンマに私もそう思ってるの?って話。それ知ってるのは、その私本人だけやからね。そんなこと、占いやっても答えは出ません。私に問うしか方法はない。