牛丼と参勤交代
- DATE : 2007.08.25
- Cat : chezの独り言
お昼ご飯を煉瓦亭、あきる野でズバ抜けて美味しい洋食屋、へ向かったのだけど、生憎のお休み。がーん。仕方がないので福生の吉野家へ。仕方なくもないか。やっぱ福生、黒人一家が来て、「すみません、お水」と微妙なイントネーションで言ってたのが微笑ましかった。男の子2人がかわいくて。いくつくらいやろー?そんな話はどーでもいい。
吉野家であるのにもかかわらず、「~でよろしかったでしょうか?」を連呼され、「なんでやねん?」と心の中で連呼。
やっぱ違和感を覚える。過去形の型を取ることで、実は責任がこちらにうつされてることにイヤらしさを感じるのである。「~よろしいでしょうか?」なら確認で、責任は双方にある。でも「~よろしかったでしょうか?」と言われると、「そうしてくれ」とこちらは頼んだ覚えなどないのに、端からこっちが頼んだかのごとく、というおかしさが発生する。
「こちらに置いてよろしかったでしょーか?」
ってなんの話?って感じじゃない?
それまでどこに置くか、なんて話題にすらなってなかったやん・・・。
それって丁寧な言い回しなん?その勘違いだけで、責任の所在とかそんなことは考えてないって?そーかな・・・?
大体、おかしな日本語として散々取沙汰されたのに、なぜマニュアル接客をしている吉野家でその修正がなされてないのか、に疑問。
そう思いながら昨日からの続き『いちばん大事なこと』を読んでたら出ました!
『環境問題を議論すると、「そうはいっても、昔の生活には戻れませんからねぇ」と慨嘆する人が必ずいる。そこで私はカッと怒る。「戻れません」と誰が証明したのか。それをいうなら、「昔の生活に戻りたくありません」だろうが。それを「戻れませんからねぇ」と、あたかも「客観的に不可能」であるかのように主張するのは、インチキである。』
はースッキリ。
ちょっと違う?
言葉って意識の産物やから、どう取り繕っても思ってることが言葉に表れてしまうものやと思う、という意味で同じやと思う。
そして。
『なにもしないで、「先行きどうなりますか?」と他人に訊く。不景気だ、失われた十年だ、と過去をいう。政治が悪いんだと、他人のせいにする。そうなったら、ある意味おしまいだということは、だれでもわかっているはずである。なぜそうなったか。学ばなくなったからである。学ぶとは、自分が変わることである。目からうろこが落ちる。それを先生に教えてもらって、やるのではない。自分で目のうろこを落とせ。』
続けて、
『年間日本の自殺者数は三万人を超えるが、人生は生きるに値するにもかかわず、この数字が増えるということは、そう思わない人が増えたということを意味する。生きるに値しない世界を創って、そこで長生きしてみて、それがどうだというのか。それがどのような世界であれ、世界を創り出してるのは、結局はわれわれ自身なのである。』
養老孟司は『バカの壁』でも確か参勤交代を勧めていたと思う。もちろん今回も同じく。
自分で考え、自分で答えを出し、自分で動く。それが大前提。それができないというのは、都会の常識だけが常識だと信じ込んでることにある、と思う。あらかじめ答えが用意されているのが都会というところだと、田舎に住んでそう思う。もちろん都会を否定をする気はない。田舎偏重でもなく、都会にしか住めないということでもなく、両方を行き来できることがバランスの良さやと思う。
「どうすればいいか?」と訊く前に、「どうしたいのか?」が先にあるはずで、どうであれ最後は「どうする・どうした」でしかない。それが自分の責任。他人のせいにしてはいけない。それをキリスト教では「人間には自由意志がある」と言う。自由の裏側には責任が潜んでる。自由が欲しけりゃ自分で責任を取るしかないし、責任を負うから自由が手に入る。それだけのこと。
結局は自分。自分で考えて、自分で答え導き出して、自分が動くこと。それが他人のためにもなる。って最近そればっか。
そう、『結局はわれわれ自身なのである』。