1の反対は?
- DATE : 2015.08.23
- Cat : 『ボクらのゲンジツ』
数年前、友人から、「みうらじゅんさんが、『1の反対は0じゃなくて、-1』って言うてるんやけど、アンタ意味わかる?」と聞かれたことがある。
瞬時には、頭の中は、???状態、しばらく考えて、あ!そっか、となった。
面白かったので、その後、会う人会う人に、「1の反対ってなんやと思う?」と聞いてまわったところ、「-1」と答えた人は非常に少なくて、大多数は「0」と答えた。
余談ながら、他の少数意見として、「無限大」と「2」というものがあった。
「1」の反対を「0」と、問われるまで考えたこともなかったのに、なぜかそう思い込んでいた怖さ。
もし「1」の反対が「0」なら、真ん中は「0.5」になる。前提がズレてたんでは、世の中もズレて見えてたはずで。
きっと「0,1」の関係が、唯物的で、在るか無いかで、見えるものだけで、科学されたものだけで、の考えるという世界、
「1」の反対は「-1」が、マジョリティの答えなら、神秘とか精神とか心とか愛とか芸術とか宗教とか宇宙とかが、もっと受け入れられてるはずで、
「1」在るためには、「-1」見えない作用があり、感じるという世界、なんだと思う。
具体的にいえば、電気をつくる(1)には、石油やウランが減ってる(-1)という関係。気を遣う(1)、疲れる(-1)の関係。
みうらじゅんさんの言葉を借りれば、空車・空室・空き地はあるのかないのか、ということ。
色即是空の空。
無い(0)のではなくて、「1」在るために「-1」有る、ということ。
「0,1」の現実が、現在のマジョリティ、デジタルの世界。
「-1,1」のゲンジツは、アナログ。
人間は、存在がアナログなのに、意識に引っ張られてデジタルに生きようとする=バランスがおかしい=病気。「気」が病に罹ってるわけで。
「気」とは、観えず、非科学的だと思われてて、天気・元気・空気・気を遣う・気が重い・気持ちいい、等々、日々使ってるのに、あまり意識はしていないもの。もちろん-1。
今、生きにくい人が多いのは、世の中がデジタルだから。地デジなわけで。
「-1」を意識して、アナログに、考えることより、先ずは感じること。
そして、感じたことに対して、正・誤の判断は下さないこと。
判断は、社会性を保つ上で、必要とされるだけのことで、自身が感じたことに、不正解は存在しない。
感じたことを感じたままに生きることを、「在るがまま」と呼んでるんだと思う。
「-1」が無いと、「1」も無い=「0」。
在るために、観えていないだけで有るものを、認めることができないから、他者から認めてもらうことを、安心としたいんだと思う。
お釈迦様がお悟りになられた時に、「一切は無駄である」と言われたらしい。
感じたことを感じたまま=純粋・無垢・無作為=無駄がない=在る世界。
陶芸家・河井寛次郎さんの言葉。
「鳥が選んだ枝 枝が待っていた鳥」
「花を見ている 花も見ている」
禅語の「卒啄同時」に同じ。
ちなみに、金子みすゞさんの詩も、「1」と-「1」とが書かれている。
「1の反対は、0ではなくて、-1」。
「-1」というゲンジツ。